小春日和

だめなひとの雑記帳

明けていたらしい、

というタイトルで、以前も記事を書いたような覚えがある。どうだっただろうか。

そして明けたどころか、だいぶ過ぎている。

いつの間にか、ブログを作って4年が経ち、年が明け、新年でとまっていた外の空気が完全にもとに戻っていた。

 

私といえば、相変わらずミノムシのように毛布や家に引きこもりながら、時々やむを得ない用事のために外に引きずり出されると、そのあとは数日間一切外に出ず、大人しく資格の勉強や絵、ゲームに時間を費やしている。

世間ではニートとでも言うのだろうか。しかし、働きたくないわけではない。ただ、現在ある会社の中から自分に合った殻を探すよりは、自分の好きな材料を集めて糊でくっつけて、自分に合う殻を作る方に視点を移しただけで。

結構な無茶をして700円台の時給と800円ほどの時給で17万くらい荒稼ぎした時期もあった。そういうことを何も考えずに結構していたのだから(自分の安売りである)、そろそろ自分とと家にいるニートたちを守ることだけに時間を使ってもいいだろうと、やっと思うことができるようになった。働くための生活ではなく、自分の楽しい生活のための仕事である。明太子食べたい。

 

そしてやっぱり相変わらず、人としゃべろうとして頭に言葉が浮かんでも、きちんと文字で浮かんでいるのに読めなくて言葉が詰まってしまうし、思っていることと全然関係ない単語が口からはみ出てしまっていることもある。

鬱病と診断されているのだが、なるほど、脳の病気だと身をもって実感した。何かを考えていても、いつもの道を通っているつもりが、全然違うところへつながる道に知らない間にすり替えられているような感じがする。

これはこれで面白いとは思うのだけれど、まじめな話になればなるほど厄介にもなる。

 

最近、北野勇作の「カメリ」という本を購入して、1日1セクションくらいのペースで読み進めている。文庫版なのだが、表紙や各セクションの扉絵がいちいちかわいらしくてたまらない。

役所に行って、駅前に行って、あちこち用事を済まして最寄り駅まで帰ってきて、なんだか寄り道がしたくなって本屋に入った。その時に衝動買いした本である。

衝動買いとはいえ、この人の書いた「どーなつ」という本がとても気に入っていたし、文体もとても好きだし、何より話や視点も面白い。もちろん、一部流し読みしてから購入はしている。こういう風に、誰にするわけでもなく弁解してしまうあたりを、私は組みなおしていかないといけないのだろう。

たまには、衝動買いだって、してもいいのだ。

話がそれてしまった。

この本に惹かれたのは、タイトルや表紙、作者はもちろんんなのだが、帯に書いてある 「我らがカメリはなんと可愛く、残酷で、なんとステキな子であろう」森見登美彦 というコピーがはまってしまったからだ。

それはちょうど、二足歩行で立ち上がって買い物かごを片手にさげている亀の、下から1/3を覆っていて、まるで自己紹介文のようになっていたのだ。ちなみに帯は黄緑色である。

私は、誰も救われないような、冷たかったり残酷だったり話が好きだ。オチをみて、「ほら、やっぱりそうだよね」と変に安心する。これもまた、私の何かしらが歪んでいるのだろう。「そうだよね」ということは、そういうことだと思っている。

この話の結末はまだまだ大分先だけれど、きっと大好きな本になるだろう。なんだか、そんな気がしている。

「何もしてないのに、疲れた。」

それが最近の私の口癖であり、起き抜けと夕方に必ず一度は発している言葉である。「脳が疲れているんだよ。」と言われたので、少しでも脳みそに優しくしてあげようと、バナナミルクを作って飲んだところだ。がんばれ、セロトニン。よくわからないけれど。

 

少し前に、同居人ができた。

1人で生きていくものだと思っていて、周りとも中途半端に距離を保ち続けていた私らしくないといえばそうなのだが、何より自分自身が一番驚いている。

他人(私にとって、自分以外はすべて他人認識だ。たとえ親だとしても、生命単位が別な時点で他に分類されるのである)と生活を共にするなんて完全に無理だと思い込んでいたのだから、当然だろう。

そうするとたちまち、恋愛だのなんだのの括りで縛ってくる輩が多いのがとてつもなく嫌だ。仮にそうだとしても、そうだと断定しなければならないものなのだろうか。

ただ単に考えが合い、一緒にいても苦じゃなく、さらに一緒に成長できる部分が多い、それだけなんだけれど。生活費も半分になるんだし、理由は十分だ。

もちろんその考えはその人たちの物差しではかったもので、こちらの物差しとは全く関係がないのだけれど、なぜかわざわざその物差しで殴ってくるのだから理解ができない。

いや、心理学上(でいいんだったかな?アイデンティティとかの)は理解できるのだけれど、自分の不安くらい自分で解消しろばかものよとしか思えないのだ。

そういう話が普通にすんなりと通じる人は今のところ片手で余裕があるほどしかいない。ようやく見つけた理解者のうちの1人なのだ。

 

外はとにかく生きづらい。

知らない間にいろいろな枠にはめられて、それ前提で話をされる。それを読み解きながら当たり障りのない会話からどう切り抜けるかを考える。とても、面倒くさい。

今は失業者として、うつ病患者として(診断書ではそうだった)、おとなしくしている。正直よくわからないけれど。

きちんと朝起きられるし、家事もできる。ニートたちの世話だってできるのに、脳みそだけは異常に疲れていて、室内で大事なものをなくしたり、除湿器の水を持ったまま部屋に来てしまったり、頭の中と口とで発する言葉が違って訳の分からないことになったり、そんなことばかり起きているのだ。私からすれば、ちぐはぐでちぐはくで、それこそ訳が分からないのである。

そしていつかこの文章を見て、やっぱりいつかのように、「お前、休めよ。」と思うのだろう。だから私は、しばらく休もうと思う、社会勉強というものをしながら。

 

一番になりたかった話

中学生あるいは高校生くらいからだろうか。

学校の成績の、音楽・国語以外は特に何がずば抜けているわけでもない平均少女だった私が、気付けば一番ばかりを目指すようになっていた。

一番といっても自分の情報の中での一番という、都合のいいんだか悪いんだかよくわからないような一番だ。

今も根本は変わっていないのだが、性質は少し変わったのかもしてない。

なぜそうなったかといえば恐らく母親で、数学と短距離とピアノを得意とした母親は、私が何かしらでそれなりの記録をたたき出すと決まって、自分はいかに優れていた学生だったかを語りだすのだ。もちろん薬学部に合格するような人だからそれなりではあったのだろうけれど、受験というものをまともに受けたことがない私にとっては、よくわからないものの一つだ。

そういう背景があったのと、中学生以降から特に色濃くなってきた馴染めなさを突き放すために、人が受験勉強にいそしむ中、推薦で決まった私はただその学校の特別進学コースの合格ライン同等の学力をつけるべく、ひたすら勉強していた記憶がある。

受かっていたのは当然、普通科なのだけれども。そしてリタイヤして、通信制高校を卒業した。その時も、志だけは馬鹿みたいに高かった。

 

仕事は仕事で、セールストークだの自分の売場での販売数だの、そういう数字で一番を目指していたし、制作職では自分の中でのクオリティと仕事の早さのラインを決めて、それを達成するべく小さな目標をひたすらつぶしてまわっていた。

 

こう書くとただの真面目人間なのだが、その過程がとても楽しく、どちらかといえば目標なんかはすべておまけで、楽しむことばかりに重点を置いている。

必然的にそうなってしまう、というべきか。

なので、どんな仕事でも誰より楽しめる自信がある。反面、仕事を仕事と思っていないので、いろいろなことに陥りやすいのだが。

仕事を仕事と思っていないというのは、雑にやるとか遊びながらやるとかそういう意味ではなく、作業をきっちりとこなすのを最低条件としてその上でクオリティを上げたりタイムアタックをしたり、そういう自分だけの楽しみを取り入れることであり、それによって自分のレベル上げをしているため、仕事と思う暇がないのだ。

 

もしかすると私は、子供のころから常に、自分の中で自分の理想の一番を目指していたのかもしれない。それになったら何が起こるとかはないのだけれど、そこを通ることで自分から何が生み出されるのかについては非常に興味がある。そしてその一番に一生たどり着くことがないこともよくわかっているつもりだ。理想なんて延々更新されていくものなのだから。

付箋でタスク管理

以前A4の無地ノートでやっていたものをもう一度やりたいと思って、当時参考にしたサイトを血眼になって探していたのですが…灯台下暗しとはこのことでしょうか。

いまんちゅ (id:imanchu)さんのブログで見たものでした。

 

imanchu.hatenablog.jp

 

早速印刷して、手元に確保w

ちょうど100均でかわいいノートを見つけていて、そのノートを買うために理由をつけたのも一部あるのですが、もともとやりたいと思っていたことでもあるので、気にしないことにします。

 

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付箋は、余っていたこれと、使っていない緑色の5種類。

色分けをして使っています。

オレンジは欲しいもの、青は仕事がらみ、黄色は家のこと、緑は好きなこと、ピンクは必須、使っていないうすい緑色のものは、それ以外のことにしています。

私の場合は自分のことをないがしろにしがちになるので、あえて色分けをして、やりたいことや終わったことの比重を一目でわかるようにしたいと思ってこうしています。

 

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まぁほとんど、隠しになりますが。

そして薄い緑色の付箋がないのは、書き終わってから振り分けを思いついたからですw

 

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それから、これ。

毎日何かをするのは、ジブン手帳で読書・運動系を記録しているのですが、書く・描く系は記録していないんですよね。

なので、ラジオ体操カード的な発想で、スタンプ式にしました。

 

ひとまず1ヶ月、これでやってみようと思います。

脳内電光掲示板のはなし

まるで数本の長い髪の毛を集めたような、30本以上はありそうな短い髪の毛の群れを排水溝へ見送り、ため息をついた。この頃はもう、どれだけ抜けるかを楽しむようになってきている。
電光掲示板というものは非常に気まぐれで、頭を洗っているときに浮かんだ文章を逃がさないようにしながら髪を乾かしてラーメンを作るためのお湯を沸かし、そうしてようやくパソコンに書き写してから袋ラーメンを作り始めると、隙を突くようにしてまた、嬉しそうに文字を流しだすのだ。
おかげで私は今、ラーメンを食べる手を休めて、この文章を入力している。
そう。まさに今、この文章を入力しているところだ。
すっかりと小さくなってしまったであろう私の胃袋は早くも満腹中枢を刺激し始めていうというのに、電光掲示板は流れるのをやめない。
同じ頭の中のものなのだから、もう少し連携というものをとってもいいであろうに、私が文字を入力すればするほどにどんどんと流れて行ってしまうのだから、これはもう、書ききってしまうしかないだろう。
ラーメンは、伸びてしまっている。

そこで表示をとめてしまうのだから、本当によくできているものだ。