小 春 日 和

だめなひとの雑記帳

好調ふらいDAY

も゛ー も゛ー
だれかが机の上に置いたままの携帯が鳴っているらしい。
自分ではないかと尋ねられて、慌てて発した言葉が「バイブ、使ってないです。」
昼下がりのオフィスでの出来事。

金曜日はとても暇だ。殆ど仕事が来なくて、自習ばかりしている。そんな状況だからあまり頭も回らず、うだうだとスクリーンセーバーに使う画像を集めてみたり(仕事に使うものに面白さや癒し、好みを存分に反映させることでにこにこできるだろうという試み)、新しいことを勉強したり、気になる言葉を集めてみたりに精を出していた。
夕方、例の人が現れてからだったか。
一瞬目が合っただけなのだけど、そこから色々と集めることに集中し始め、ひたすらテキストの吸収したい部分をかき集めて、ノートにまとめていた。
欲しい資料は縮小コピーして貼り付けてみたり、兎に角そのノートを見れば仕事の大体が収まっているようにしたかった。
イデアから注意点からツールの使い方から。
漸く5割を書き終えたとき、社員さんが「面白いから」と本を貸してくださった。
目次から既に私にないものがあると分かったので、休みの間にと言われたのを思い出しつつ、退勤したからもう休みだしー!と電車の中で黙々と読んだ。一気読みした。
入る情報全てが面白くて、自分に欠けていることもあって、「おもしろい」の意味が分かった。
これは読書ノートにまとめて、更にコピーをとって仕事ノートに貼り付けておこうと思う。
これだと例の人はなんだったんだ、ってなるだろう。
またあの3歳児がではじめたのだ。いなかった訳ではないのだけど、控えめだったらしい。
一気に自分の中の何かがもそもそと動き始めた気がした。空気も表情も何もが変わったのが自分でも分かった。
色んな人にいつもよりも多く話しかけられ、しょうもないことでにやにやし、何か降りてきては書き留めねばと忙しかった。
乗ったエレベーターの壁に潰されてへばりついていた1匹の蚊ですら、大変なことのように思えた。
夏休みが、子供のようにうれしかった。響きや休みという実感にわくわくできた。

ここまで書いて、そういえばこのことを書いたのは違うブログだったと気付いた。
これでは意味がつながらないではないか。
という訳で、転載する。
高校生の頃から書いていた痛々しい残骸の一部なので、色々アレなのはご愛嬌。

因みに、お借りした本はこちら。

広告コピーってこう書くんだ!読本

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しゃにむにっき。 たまには


クリエイターと呼ばれる類の人と話す機会があった。
元々私は離人感に似たようなものを恐らく生まれてからずっと持っていて(それが認識によるモノだってのも分かった)、眼鏡をかけたり外したりするような感覚でコントロール出来るようになったのだけど、それもほんの数年前からなので、100%出来るかって言うとそうではないし、調子によって左右もされるし、どうやっても所謂普通と言われる感覚にすることが出来ない事もある。
仮にその普通と言われる状態になれていたとしても、離人感がそこにあったことは分かるくらいに感覚は残っていて、その感覚を頼りに入ったりずらしたり出来るんだけど、その人と話をしてから、今までは体の外に沿って膜があったような感じからそれが自分の体の線に沿ってはまり込むような感覚までで止まっていたのに、更に体の核に入り込んでしまったような感覚が抜けないし、戻れない。
自分の目で物を見ている、感じている、触っている、感情がダイレクトに伝わってくる、そんな感じだ。
今まで膜を通して空気に触れていたのが、直に触れているような。
そして話をしている間は、自分の中に箱を持っていて、それをいつの間にか開けられて目の前に出されて、その中から適当に出して見せてよとか、あるいは言葉と言う形で投げかけられた質問が釣り針みたいになって自分の中に入ってきて、しまってあった物から適当なものがひっかかって釣り上げられていくとか、自分の中を探るというよりも勝手にひっかかってくるというか、すごく貴重な体験をしたと思う。
普段喋るのは苦手で、喋ること自体は苦手ではないのだけど、自分の思っているのをなるべくそのままの形で人に伝えることがまだしっかり出来ないことが多くて、それが心配で、だからどちらかと言うと考えながら見直して、それから渡せる手紙やメールの方が好きだったのに、それが嘘だったみたいに口からするすると出てきて、でもそれはしっかり自分のもので、そうしている間にすっぽりとはまってしまったような。

私はそういうものを持っていたからなのか、しかたなく虐待(連鎖でのそれだったから、しかたなく)をされて育ったせいなのかも分からないけれど、子供らしさと言うものをずっと仕舞い込んできていたらしい。
一番古い記憶で3歳の幼稚園児の頃なのだけど、運動会で最後に母親が抱っこするという場面で、抱っこされて早々「もういい?」と聞かれて、やだ!とかもうちょっと!でなく、重たいんだろうなとかしんどいんだろうなとか、そういうのを察知して「いいよ」と言った。
先に話した人とはまた違う人に出会って、所謂インナーチャイルドと向き合うとかそういうのを経て、まだまだ欠けていることは多いものの、それなりにキーとなっていて清算できていなかった過去を片付けることが出来ている。
そこから自分の中に子供が生きているようで(それを3歳児と呼んでいる)、今まではそれだけで終わったのだけど、先の人と話してから、今度は見えるようになった。
と言っても別に目の前にいるとか幻覚だとかそういうものではない。
絵を描くのは小さい頃から好きで、でも自分の中のものをどうしても表現したいのにその術が分からずにずっときて、模写をしてみたりキャラクターを描いてみたり人体の練習をしてみたりしてきたのだけど、以前、ふと、その3歳児を絵に描き起こしてみた。
その3歳児がもしかすると表現したかったものだったのかと思うくらいにあちこちに現れて、それをノートに描いてみる、そんな感じだ。
何気ない自分の生活が、その三歳児を通して違う世界になっていくような。
コーヒー豆を挽いてみてはちらつく3歳児を描き、パンにバターを塗ってみてはやっぱりちらつく3歳児を描き起こし。
今まで描いてきた絵っていうのは誰かの真似だし、消化も出来ていなければ中途半端な表現しか出来ていない。
どこかしっくり来なくて、七五三みたいな着られた感だったりとか、描かれたものがぎこちなくて、素人にはい、ポーズとって!とか言った時のようなそんな雰囲気のものしかなかった。
どう簡略するかとか、どこまで細かく描くとか、そういうのも色々見てしっくりくるものを探したけど、1つもなかった。
なのに、その一件があってから、話をしたときと同じようにするすると頭の中に浮かぶのをそのまま紙に描き起こしていくとか、描いているうちに紙に違うものが見えてきてそれも足してみるとか。
それでもって、確かに、私の物だって言えるのがまた不思議で。

今まで何度か、あ…生きてるわ、と思うことはあったけど、大体一瞬だったり、そうでなくてもそこまで長くは続かないものだった。
でも今は明らかに生きているし、存在している。それが慣れない。
認知がらみの感覚のお陰で、今まではじゃっくさんがいるかいないかや、その辺の人を見てさわれると感じるかそれともガラス越しかと感じるかどうかで自分の状態を確かめたりすることもあったのだけど、そんなことしなくてもいるし、下手をすれば物までも存在感をしっかり放っている。
その中の一つになったというか、そういう塊として存在してしまっていると言うか。
戻りたい訳ではないけれど、せめて自由に出入り出来るようなコントロール力があったらな、とは思う。