小 春 日 和

だめなひとの雑記帳

生きることについて

生きるということは、現世に執着があるとか、そういう話を聞いたことがある。誰かに対しての怒りであるとか、そういうこともある種の執着ではないかと思う。それらが完全になくなったとき、どうなるのだろうか。生きていると言えるのだろうか。

なんてことを、誕生日に頂いたコーヒーミルで豆をカリカリと挽きながら考えていた。

お湯が沸くまで、かぼちゃの煮物をサラダにしたりもした。

以前似たようなことを書いたことがあるが、それと同じかもしれないし、近いかもしれないし、違うかもしれない。あのときの感覚とはまた違う感じではある。


 

ものすごく甘いものが飲みたくて、コーヒーの半分はカフェオレにした。シロップを2つと牛乳半分。コーヒー好きが見たら、なんてことを!となるほどではないと思う。それに私はブラックも好きだ。

面倒なことに私は、記憶を俯瞰した状態の映像でまるっと覚えている。それに引きずられて落ち込み、放り投げようとしても紐がついていて飛んでいかないことの方が多い。誰がこんなものに紐なんかつけたのか、理解に苦しむ。そういう状態が常で、調子のいいときはそんなこと微塵も思い出さないし、ラクにふわふわと生きていられる。今はそのどちらでもない。ものすごく楽というわけでもないし、かといって苦しんでいるわけでもない。強いていうなら、1人になりたいくらいか。1人になりたいというのも語弊があるかもしれない。ただそこに存在してしまっている雑草のような、その程度のものだ。もちろん彼らだってしっかり生きているし、その程度というのは失礼かもしれないが。

 

先日、姉の猫が亡くなった。一度しか会っていないがとてもいい子で、普段人がいるときは姉のひざの上には乗らないのに私の時には乗ったという、なんだか不思議な子だった。姉妹だというのが分かったのだろうか。休憩中にメールを読んでしまい、トイレに駆け込んだ。添付された写真が、あの子はもういないことを物語っていた。どう見ても、もう、そこにはいないのだ。生き物は不思議だ。

 

気になるから、観たい。藤原竜也、結構好きなんだと思うんだ。