小春日和

だめなひとの雑記帳

記録すること

この時期になるとというよりは、9月過ぎると、だろうか。どうにもそわそわして落ち着かない。2015年は、ほぼ日手帳オリジナル1冊に決めている。いや、決めた。それでも、誘惑というものはあって、それは簡単にぬぐえなくて、その度に一生懸命会議をするのだ。一人で。その悩んでいる間に、今年のほぼ日手帳を埋めればいいのだが、頭はもう来年の手帳を毎日書くことのできる要素を見つけるか、どうやって毎日少しの時間で書くか、そればかりに持っていかれている。1年、きちんと使ってみたいのだ。毎日がっつり埋めたいわけではない。月に10Pの空白があったって構わない。ただ、きちんと使い"続けたい"のだ。

 

ところで、以前からずっと、頭の片隅で"ジブン手帳"というものが手を振ってこちらを見ている。

ジブン手帳はバーチカルだ。しかも、ほぼ日手帳にも時間軸はついている。私の仕事は、営業などのように誰かと約束するということが一切ない。よって、2つも時間軸のある手帳を持っていても無駄だ。それは重々分かっている。それでも、気になるのだ。

毎日の気分の記入だったり、天気のチェック欄だったり。イラストを描いてもいいのだが、面倒くさくなった日を境に描かなくなるのは目に見えている。天気記号だって、見慣れたものではない分、しばらくは時間を要するだろう。逆にいえば、それだけの理由なのだが。

あとは、鞄に手帳、しかもそれなりの内容のもの2冊はきつい。これが一番の理由なのかもしれない。

そんなことを、ここ3ヶ月で5回くらいは考えている。手帳沼だ。

 

さて、私はどうしてここまで”記録すること”に拘るのだろうか。特別メモ魔、というわけでもない。ただ、1日1日を整頓するようにしっかり日記を書いたかと思えば、忙しさに追われて数ヶ月放置することもある。その間、こうしてブログを綴っていたり、読書ノートを書いたり、通院用のノートをまとめたりしている。大体何かを記録しているのだ。最近、そのことに関して疑問を持つことが増えた。私は何を残したいのだろうか。