小 春 日 和

だめなひとの雑記帳

ともだちがほしかった話

結局、不可能なのだ。環境、状況、そして自身。仮にそういう人が万一見つかったとして、出来ないだろう。だからこそ、今のような物理的・精神的な距離のままで進んでいるし、それが続いているのだと思う。分かっていることではあるから、尚更そういう思いが強く出たのだろうけれど。

 

ただ、何をしようが個人に変わりはないし、別個の生命体である。共感、とはいうものの、それはどれだけが伝わっているのだろうか。「これ、いいね」の一言が、あるいは詳細に語り合った言葉が、本当に両者で”同じ”なのだろうか。そんなことはありえない。生まれて誰かに育てられていろいろな物を見た以上、それはもうその人だけの完成や言葉であって、他人には理解しえない。形にした時点で、Aさんの少しは0.1でBさんの少しは10など、完全に個人の解釈に依存してしまうのだ。

今更何を当たり前のことを、と思われるだろうか。普段、それを意識して会話している人がどれだけいるだろうか。伝わっている、いないを判断できるのだろうか。もちろん、いちいちそんなことをしていたら、日常生活を送っているだけで疲れてしまうから、妥協をしなくてはいけない。妥協せずに伝えたいことなんて、ほとんどない。

最終的に、自分の中にもう一人生き物を作ることで片付いてしまうのだ。こいつばっかりは、何をどうやったって私の中のものだ。解釈のぶれようがない。あとはそれに、色々なものを見せ、違う角度からみた状態を教えてもらう。それで事足りるのだ。

 

もちろん、全てを否定するわけではない。すれ違った解釈から面白いものが生まれることもあるし、その可能性はいくらでもある。それはそれで、好きだ。

ただ、自分の中でまとめたいことについては、そうなってしまうだろう。

 

私は何を求めているのだろうか。

感覚的には何となく分かる気はするけれど、言語にしようとすると難しいものである。そう感じるということは、まだ自分でも分かっていないということだろう。

 

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安定の誤字があったので、直すついでにこっちに持ってくる。

 

自分でかいておきながら、前回書いたときの自分がいまいち分からなくなっていて、笑える。引きこもるのに飽きたのかね(´ω`)

 

”この盛大な厨二病は、次に書くときにはどう変わっているんだろう”という観察目的で、記録を残しておく。