小 春 日 和

だめなひとの雑記帳

どうしてそこまでして走らせるのか

終わらせるタイミングなんていくらでもあったし、ただ現実に流されるように歩く事だってできる。それでもやっぱり走ってしまって、たまに壁に擦り付けてしまったり、角を電柱か何かにぶつけてしまったりして、その度に応急処置にもならない処置をして、ごまかしながら走っていたように思う。

最近はもう少しまともに操縦はできるようになったものの、やはり限界はあって、極度に集中するあまり他の感覚的な部分の集中まで入ってしまって暴走したりとか、不必要なものまで拾いすぎて落ち込んだりすることもある。

今日もスーパーでナスを探していて、「あら!これ、うちのお父さんが好きな紅白饅頭よ」という声で全て忘れてしまって、残ったのはナスの黒いシルエットだけで、それが何という名前でどうして探しているのかも忘れたまま、さらには何処に向かっていたのかすらも忘れそうになって、そのシルエットだけを頼りになんとかたどり着いた。ナスは値下がっていなかったから、結局買わなかった。先週の暴走が、まだ続いている。

 

何故走るのかって、それは常に目の前に面白いものがあるからで、どうにかしてそれを手にすれば色々と変わるんじゃないかって本能的に期待をしてしまっているのだろう。

実際変わった部分もあるのだけど、変われば変わるほど現実からは遠のいていって、確かに前より操縦は上手くなったからごまかすのも上手くなったけど、生きづらさというものはどんどん深くなっているように思う。

 

多数派とはズレがあるということを忘れると、気付いたら「こいつ、何言ってんだ?」という空気を作り出している。そういうのも分かっているから多数派に染まっているふりをする。

会話だって、自分の話していることが相手にどのくらい伝わっているかどうか、なんとなく分かったりする。できるだけそのままに近い状態で伝えたい人には言葉を選んで喋るし、それ以外の人にはどうでもいい相槌で終わらせてしまう。

そういう関係に意味はあるのだろうか、なんて考えながら。

私は流されている時間に乗っているだけだし、相手は別に何か有益なものを得るわけでもない。だからまぁ、俗に言う“友達”というものは出来ないのだけど、そもそもそれが何だかよく分からないし、この状態で落ち着いてしまっているから、今は、面白い人と色々情報交換できたらいいなーくらいにしか考えていない。

 

聞いた話だとずれていると自覚している人は少数らしく、多数の人はそれを察知していないのだと最近気がついた。噛み合わないし(話の内容は面白いし、話自体は噛み合うのだけど)、そういう風にしか感じられない関係でも、当たり前のように続けようとするのはそういう部分があるのではないかなんて、考えたりしている。

 

こういうことが頭の中に流れ出すということは、何かしらでアウトプットしなければならないほどの何かがあるということで、だからこのブログをそういう風に使いだしたのだけど、今確実に疲れているのだろう。

何とか乗り切ったものの、流石に毎日ご機嫌でいようと思うと、色々なものを犠牲にして漸く1mm手に入るか否かという状態まで磨り減ってしまっていた。

お陰でここ2、3週間の出費がすごい。ほとんどが食べ物と日用品なのだけど、久しぶりに文庫を2冊と、服を1着購入した。あまりお金を使わないようにしていた反動もあるのかもしれない。

色々なことを片付けたくなって、色々なことを始めたくなっている。まだ春は先だっていうのに今頃からこれが来ているということは、春も結構気をつけないといけないのかもしれない。