小春日和

だめなひとの雑記帳

茶色の誘惑

定期的に食パンが食べたくなる。一昨日がその日だったのに買い忘れてしまったので、昨日、コンビニで買った。

焼いてないそのままの食パンのみみが好きだ。ケーキの茶色い焼き色部分が好きだ。パウンドケーキは、切り始めと切り終わりこそ至高である。

 

トーストに目玉焼きを乗っけるのが好きだ。最近、一度フライパンで焼いてからトースターでパンと一緒に焼くという技を習得した。焼きあがった目玉焼きに塩をかけると、じわじわと水滴に変わっていく。そういうものを見ているのが、すごく好きだ。

 

料理は、母親がするのを見たり手伝ったりするうちに、自然と覚えた。調味料やら何やらを計るのは調理実習か、お菓子作りくらいだ。あと、初めて作る料理。

何となくで大体の味は再現できるのではないかとは思うが、別に資格が取れるレベルで何かできるわけではなく、ただ自分の好きな味を自分の為に作ることだけで、7割くらいは生きる為の必要な手段であり、面倒な記憶力に対抗する為の手段でしかない。

一番厄介なのが弁当のおかずで、これまで作って入れたものは大体何となくで覚えてしまっているので、よっぽど好きなものか、その記憶が薄れるまでは作らない。ハンバーグなんて、去年の夏に入れたっきりだ。いくら暫く食べていなくても、記憶だけで「また、これか」となってしまうのである。勿論味は多少違うので、視覚以外では楽しめるのだけど。ちなみに同じ味でも材料が変わっていれば多少違うので、そういうものはノーカウントにしている。じゃなきゃ、やってられない。

 

食べることは好きだし、味を楽しむことも見た目を楽しむことも好きだ。ちなみにみどりいろが好きなのは”美味しそうだから”で、これを話すと大体訳の分からない顔をされるか愛想笑いになってしまうのだが、実はあながち間違っていないらしい。食べちゃいたいほど可愛いと近いのではないかと思っている。現に、みどりいろの食べ物は山葵以外は大好きだ。

 

自分の好奇心が、時々理解できない…というより、どう解釈したらいいのか分からなくなることがある。春の歌ではないけれど、食べられそうなものは基本的に何でも食べる。食べ物も、飲み物も、事柄も。食べてみなければ、やってみなければわからないのに、情報だけで好き嫌いを判断するのが嫌だとか、後付けで理由を考えることはいくらでもできるのだけど、それ以前のところだろう。無意識の興味、だろうか。そういう風にできていると言っても過言でないくらい、当たり前のようにそうしてきた。

「色々やるんだね」と言われることもある。音楽、イラスト、運動。文字に表せばそれらは別の事柄で”色々”に該当するだろう。それは本当に”色々”だろうか。媒体が違うだけで、私の中では、やっていることはすべて同じである。例えば運動で、走ると投げるは使う筋肉や動作などは違うだろう。だけど、”運動”というくくりでは同じだ。そういう認識でしかないので、したいことの為にその道を通るしかないのなら喜んで通る。そもそも、言葉があるから”色々”なんて言える訳で、犬が穴を掘って遊んだり、猫が玉を追い掛け回すのと何か違うのだろうか。知性や脳がどうと言うことはできるし、実際色んな研究は進んでいる。それは純粋にすごいと思う。どういう方法でそれらをここまで繋げていったのか、興味もある。けれどそれはあくまで人間という媒体を通し、言語という道具を使用して表現しただけで、100%絶対そうだと言い切れるものなんて存在しない。そういうものに普段からぎゅうぎゅうと締めつけられたまま生きていて、何が面白いんだろうかと、たまにすごく考える。別に他人がどうしていようと私には関係ないし、興味も無い。だが、私に干渉してくるなと思う。他人が私にふれて何を感じようと、それはその人の責任に於いてそう受け取っているだけで、私も私の責任に於いて私をやっている。それを、「おかしくない?」「理解できない」などとぶつけてくるのは、自分で受け取りきれてないからだろう。熱い薬缶にさわればやけどするのは当たり前だし、それを「あーあ」で済ませるのなら、こちらにだって「あーあ」で事足りるはずだ。

早い話が、人間関係を極端に面倒くさがる時期が来たのだろう。誘いを受けたりするのは純粋に嬉しい。ただ今は、概念のずれをすり合わせて上手くやれるほどの余力がないのだ。

上記のようなことを書いておきながら、私もしばしばぶれる。大丈夫だと認識した途端、何かの拍子ですぐにぶれだす。「大丈夫だ」は大丈夫じゃないということを忘れてしまっている証拠だろう。

 

「大丈夫?」という言葉が嫌いだ。もちろん、心配して発せられている言葉だと理解はしているので、そう言ってくる人たちに対しては何も思っていない。私が極力言わないようにしているだけだ。

ただ、「大丈夫?」と聞かれて「大丈夫じゃない」ことを伝えられる人がどれだけいるだろうか。その「大丈夫?」の中に、”大丈夫であってほしい”や、”大丈夫でないと困る”は含まれていないだろうか。そもそも、”大丈夫”とは、何だろうか。

それでもやっぱり、言ってしまうことはある。そういう時は、少し休むかとか、何か手伝えないかとか、別に道を用意するようにしている。

挨拶のようなものだとも分かっている。でも、幼少時の時点で「何故犬は”犬”というのか。誰かどうやって広めて、ここまで多くの人がきちんと犬を犬と認識できるようになったのか」という疑問を持った時点で、簡単に言葉を選べないのだ。