小春日和

だめなひとの雑記帳

ムダイ

何をしても主張をやめない頭痛や不穏に上下しながら下がっていく体重を尻目に、思っていたより体重が減っていたからという理由で摂ることにした、本日2食目の決してまともとは言い切れない食事を口に運んでいる。

僕の不調さは、部屋を見ればすぐに分かる。キッチンの洗い物なんか、軽く濯いであるとはいえ1週間も放置されている。

そんな中にまともな皿などあるわけが無く、おもむろに取り出したステンレス製の調理用ボウルに茹で上がった麺を無造作にひっくり返し、どうせパウチされているものを温めるのだしと、雑煮を作って空になった鍋にそのまま湯を沸かして温めたソースをぶちまけた。

汚いだろうか。何をもって汚いとするのだろうか。そもそもそんなことは僕にとってどうでもいいことだった。

 

全く涙を流さない時期を過ごしたと思えば、今度は1日数回涙を流す日を送っている。起きればエレベーターに乗り続けたような眩暈に襲われ、帰る頃には座っていても頭の重みを感じさせられるような、体だけが軽くなったような、何とも言えない眩暈に変わっている。

予防薬としてもらった血圧を下げる薬も効果を成さず、体調が悪いのかいつもの偏頭痛なのか、あるいはどちらも混じっているのか、考えることすら遠慮したいほどの鈍痛も、いつも頭を襲ってくる。

それでもなるべく平常に見えるようにしようと努めてしまうのだから、周りからは到底そうは見えないことも分かっているし、かといっておおっぴらに出すつもりもなく、きちっと話をする場を除いては、体調の悪さを冗談めかして笑いながらつぶやくのが精一杯だ。

 

時に、僕は僕として僕を殺さなくてはならないのだと思う。自殺ではない。あくまで他者として僕を僕として認識した上で殺さなくてはならない。こればかりはどうしようもないのだろう。そしてそれは時期を追うごとに、深くなっている気もする。

ここまで僕ぼく僕ボク言っているのは、最近、私わたし言っている本を読んだせいかもしれない。

僕は僕でしかなく、生かされているという表現がある以上、僕でしか在れないのかもしれない。当然、僕は下僕の僕である。

 

目の前に用意されたクッションをこれ見よがしに一口分だけ齧り散らしながら、針を構える。自分達がさっきまで会っていた人を品がないと罵りながら順番待ちで平気で僕を抜かす老夫婦の雌の方に「抜かさないでくださいよ」とジャブをかますと、お転婆娘が「やっちゃった!」と言う様に肩をすくめて「すみません」と謝ったので、「品のない方ですね」という一言は次の為に大切にしまっておくことにした。

僕は、人が言われたくないことを察知することができるらしい。それは母親との口喧嘩でも効果を発揮し、何度も「どうしてそこまで言うの」と言われたし、皮肉が上手いとも言われる。それはあくまで僕の何かを守るためのもので、むやみやたらに言ったりはしない、もちろん。

ただ、一度刺しかけたものは、最後まで貫ききらないと気がすまないのだ。