小 春 日 和

だめなひとの雑記帳

多忙

通勤中にCoccoのWay Outを聴きながらうっかり涙を流し、急に流れてきた涙をやり過ごすために職場のトイレに籠もり、そして今日は洗い物をしながら涙を流すという、なかなかに忙しい生活を送っている。

この洗い物の山もまた、1週間で作り上げられたものである。

といっても先週は、半数以上の食事を外食で済ますか購入かあるいは忘れてしまっているかだったので、先週末に料理をした後がほぼそのまま残っている、ということになる。

好きだった手帳は3ヶ月ほど前から空白のスペースが目立ち、色も消えていき、今では申し訳程度の鉛筆の下書きが残っているのみである。どうしようもないのだ。

書く気力はないのに、物忘れは増えた。頭の中身を整頓できないので、また、メモ帳にToDoリストを作って事細かに書き込んではチェックする日々に戻らなければならないらしい。

 

物忘れは増えたのに、記憶力はほぼ相変わらずである。過去に何度か書いたが、私は人よりも記憶力が強い。映像記憶(音声含)ができるので、試験の時などはそれはそれは役に立つのだが、その分どうでもいいことも片っ端から覚えている。そしてそれらは、日々フラッシュバックとして、秋雨のように細く延々と流れ続けるのである。

人は、忘れる。大半のことを覚えていない。その感覚は何となく、母親の「よく覚えているね」の頻度で理解した。マッチ売りの少女の幻想のような、本当にそこにあるようなでもおぼろげな、そしてその時の空気感や感情…そういったものが、記憶によって濃度に差はあれど、はっきりと私の中に残っている。

人がどれだけ覚えていてどれだけ覚えていないかが分かったらいいのにと、よく思う。そうすれば私は、例えばその人が過去に私に何か言ったことを忘れて再び同じ事を言ってきたとしても忘れたふりをして聞いていればいいし、過去に私が何をどう言ったのかのつじつまを合わせながら喋るということもしなくていい。

自分が私に何かを言って忘れてしまっても、それも含めて責任を取ると言われたことがある。単純な私はそのまま飲み込み、いつも通り、色々なことを覚えてしまいながらでも、何とか進んでいた。そして暫く経って、そのことを話題に出したとき、「そんな都合のいい事言ったっけ」と返されてしまった。所詮その人にとっては、都合のいいことでしかなかったのだ。

人は、忘れる。それは、仕方のないことだ。私だって全部が全部、100%覚えているわけではない。そして実際、人は忘れるということを忘れてしまっていた。そんな自分に、嫌気がさした。

 

「どうせ忘れるんだから」は、私にはなくてはならない言葉になっている。電車内で嫌な思いをした時、知らない人間に暴言を吐かれた時。それらは何年経っても忘れることなく、実際に起きた時点で覚えているだろうなということは感覚で分かるため、半ば諦めてもいる。それでも、恐らくかなりの確立で相手は全く覚えていない。なのに、私が覚えているというだけで勝手に自分で自分を苦しめる必要があるのだろうか。そういう意味で、相手も忘れているのだから覚えてもしょうがないと、なんとかすり込むようにして毎日を送っている。どれくらいの容量があるかも全く分からないハードディスクの片づけのために、たった数バイトの情報に踊らされているのだ。