小春日和

だめなひとの雑記帳

近すぎる話

身の回りの人間関係が続かないのは、近すぎるからだと思っている。所謂"常識として"の友達・仲の良さの概念は何となくは理解している。勿論何となくだから失敗することもあり、その時は大体その場所で世話を焼いてくれている年上の人に注意されていたのだけど、そこで初めて知るということもあった。あまりにも分からなさ過ぎてADHDなんかを疑ったこともあるのだが、一般の範囲内だった。

金銭を得るために職場に通っているのに、早く帰ると「仕事しにだけ来てます、って感じで話しかけるタイミングがなくて」とか言われてしまう。職場とはそういうものではないのかと考えたこともあったが、今では"そういうもの"として把握し、自分の理解とは別のところに転がしておいている。

「みんなと仲良くしたい」は、やっぱり未だに分からない。仲良くしたいとは何なのか。それで名前の由来や家の環境、お金がらみの話をふられた所で、何故お前にそんなことを言わなければならないのかとしか思えないのだ。それと仲良しとがどう繋がるのかもわからない。そこに共通点があったところで、私が人に興味を持つのはその部分ではないのだから、お互い何のメリットもないだろうに。

人に興味を持つとは書いたものの、私が興味を持つのはその人の持っている感じ方や技術なんかであって、その人の社会的な情報に関しては興味がない(誕生日や好きなものなんかは、興味があろうがなかろうが神経衰弱的に勝手に一発で覚えてしまう変な特性があるので、諦めているけれど)。

 

人間とは不思議なもので、「仲良くしたい」と話しかけてくる割に、自分の興味のあることしか聞いてこない。対象人物がどういう人で、どういう部分に興味があるかなどを引っ掛けてやれば簡単に釣りあがるだろうに、カワハギ相手に輪切りにした魚肉ソーセージで釣りをするような真似をしてくる。そして釣れなければ、何考えてるか分からない、嫌い、と勝手に離れていくのだ。それはそれで有難いのだが。

とはいえ、それで延々釣りをしているということは大半の人はザリガニやらタコだったりする訳で、それに食いつくことができないカワハギは種類の数に負けている訳で、恐らく少数派になるのだろう。

自分がもう1人いたらきっと楽しいだろうに、とも思うけれど、いく所までいってしまって、それはそれで大変なのかもしれない。

 

最近面白かったこととけば、テレビなんかの字幕の"衝突音♪"である。

笑ってはいけない場面での"♪"は、反則ではないだろうか。