小春日和

だめなひとの雑記帳

春の疲れ

相変わらず特に何があったというわけではないのだけれども、受け止めて処理をしなければならない現実の断片をいくつもその辺にまき散らかして、集めてやらないといけないのになかなかそれをする気にもなれず、ぼんやりと、TSUTAYAディスカスで借りたCDをPCに取り込みながら聴いている。

久々に使ったノートパソコンは使用感を全く忘れてしまい、何度もBSとNLを間違えたので、いつもの方に切り替えた。

 

ピントはあっている。

それがいつ頃からかもわかっているから、おそらくそのせいなのだろうけれど、今までエネルギー大量消費型のシールドから守っていたものが露出して、それですべてを感じなければならないのだから、とてつもなく面倒だなぁと思う。

一度シールドではじいたからと言って、それはそれで痛みはあるのに、それをまたきちんとした形で受け止めなければならない。

1回で済めばいいけれど数回にわたっていることもあるのだから、いい加減この仕様をやめてほしいと思う。でも、多分生まれてからずっとこれなので、なおることはないのだろう。

 

4月に入ってから、毎日のように昼寝をしている。しかも、日によっては複数回。体はだるく、頭は痛く、よくてもヘビーな頭重感なのだから、よほどどうかしているのだろう。いろんなことが捗らない。

去年の今頃はちょうど仕事を辞めてぐったりしていた時だったから、気付きにくかったのかもしれない。

そんな感じで、ナメクジのように生きている。

現実がつらい

何か辛いことがあるとか、これから先あるとか、嫌なことがあるとか、嫌な目に遭ったとか、そういうことは一切なくて、これはまた私の“いつもの暴走”なのだ、きっと。

兆候は数日前から感じていたものの、音楽を聴きながら作業しているだけでこんなに一気に近づいてくるものだとは思っていなかったというか、分かっていたというか、あえてそうしたのかもしれないという気すらしている。

私は時々、勝手にそういうことをする。

それは私の意思かもしれないしそうでないのかもしれないけれど、動かしているのは私自身なのだから、結局のところ私が勝手にやったことなのだ。

 

息をするのが、存在するのが、辛いと思うのはいつものことだった。それも最近は大分薄れて(それでも時々波が来たりはするけれど)なんとかそれなりに暮らせていたつもりなのに、こういう時に津波のように一気に押し寄せてくるから質が悪い。

全部、切り捨ててしまいたくなるのだ。何もかもを。でも、現状そんなことはできなくて、いつも誰かに助けてもらいながらなんとか戻っては来るのだけれど、それでも現実の辛さはどうにもならない。結局これは、どうしてやるのがいいのだろうか。いまだに分からないから、もしかするとやり過ごすことしかできないのかもしれないし、こんな風にどうしようもない文章を生み出すのもいいのかもしれない。

 

存在しているだけで、空気と自分の接点がびりびりするような変な感覚に陥る。それは、合わないところに無理やりねじ込んんだパズルのピースのような感覚で、お前はここじゃないと言われているようで、そんなのは分かっているから外れようとするんだけれども上手く外れずに、結局、ピースの端がはがれてもさもさになっただけで終わるんだ、きっと。

 

この年までもがき続けているなんて思ってもいなかったし、思いたくもなかった。ただ何も考えずに生きているのが普通の側に行きたいと思ったこともあったけれど、その時点でそれは自分ではないということも分かっていたから、それはあきらめた。

大体のことは「発達障害の特性ですね」で片付いてしまう。本当にそうかはよく分からない。いくら研究して分析しても、100%分かりきるなんてことはないだろうし、本来持っているものと発達障害の区切りだって見えるものではない。だから私は一生分からずに、きっともがいたまま生きていくんだろう。

大体の人生はそういうものかもしれない。でも私は人生なんてまだ1回目だし、2回目があるかも分からないし、人の人生だってよく知らないし。

 

なんだろうね、これは。

とりあえず中身を整頓したかったってことでここに書き捨てて、やるべきことに戻ろうと思う。

1100文字程度ってこういう風なら12分で書けるんだな。どうでもいいけど。

お前は、誰だ。

まぎれもなく私なのだが、自身ですら思い返すと「誰だ?」と思うほどに攻撃的になっていることがあり、その度合いは社会に入り込むのをやめたことで下がりはしたものの、それでもやはり時々顔を出してくる。

そしてそういう自分をとても嫌いになり、何度も忘れるために「終わったんだ」と言い聞かせ、実はそれが刷り込みになっているのではないかと怯え、そしてそういう生き物だから仕方ないのだとあきらめようとする。

そういう生き方を、未だに、している。

 

久しぶりの明瞭な視界だ。

この感覚を覚える度に、「またずれていたのか…」と落胆する。

いつもこの視界なら、エネルギーを無駄に放出することも前借することもなく生きられるのに、それをしなければならないほど疲弊していることもまた事実で、何が怖いかってそれを自覚できていないことで。

今の疲れがただの「疲れたねー」程度のものなのか、それとも隠さねばならないほどの「疲れているから危険だ」なのかも分からないまま、今日も作業をしようとしている。

幸い家の中で完結することばかりで外に出る必要性がないので、自分だけの問題で済むことが救いだ。

 

疲れたとは、休むとは、いったい何なのか。

ただただ消費するエネルギーに身を任せて毎日を送っているだけではないのか、それは生き物として正解なのだろうけれど、私はもっといろいろなことを吸収して吐き出したいのだ。そのためのエネルギーが足りない。

 

ランナーズハイみたいなものだろうか。

疲労している気がするのに、絵やここのアウトプットはやけに捗っている気がする。

月刊中だるみ

月末に疲労に気付き、月初に休みを取る。

そのぬるま湯に慣れてしまって、半ば後半から目標達成のために頑張りだし、そしてまた披露して月初に休みを取る、そんなサイクルで活動している。

果たしてそれがいいのかどうかは分からないが、休んでいる間はブログや絵などに集中できるので、これはこれでいいのかもしれない。

 

いわゆる主婦業というものも同様に、しんどい時はネットスーパーや総菜に頼り、元気な時にせっせと作り置きをする。

幸い、お互いが自分のことは自分でする前提で無理な時は補い合うという考え方で生活しているので、衝突が一切なくてありがたい。

洗い物がきれいにしきれてなかった、これはやめてほしい、などもお互いがそのまま言えば「そうか、やり方を変えよう」に変わるので、こういうやりとりをしていると、家族も結構組織っぽさが強いんだなと感じる。

後は私がまともに稼げさえすれば、色々と捗るのだけれど。

 

今日は特にやる気が出ず、ちんたらと作業をしてはTwitterを眺め、またちんたらと作業をしてはゲームをし…という状態だったので、思い切ってやめてしまった。

使っているお絵かきソフトの使い方がまた一つ分かったので、収穫はあった。

 

珍しく、電光掲示板が動いていない。

最近は系統の違うブログばかり書いていたものだから、もしかするとスイッチが切り替わっているだけなのかもしれないけれど、調子が万全とは言えない状態なので、多少心配ではある。

とはいえ、私の中から完全に消えてしまうことはほぼないと思うので、またチカチカと点滅し始めて、やがて点灯するまでの間を楽しんでやることにする。

切り離すということ

最近、これがよくできているのではないかという風に感じるようになった。

それはそれ、これはこれという考え方である。

私の母は芸術肌系の人で、且ついろんなことがあったので、とても感情的だった頃がある。

その感情は、びりびりとした空気となって私に伝わるので、反抗期がくるまではいつも「いつ爆発するだろうか」と怯えていたような記憶がある。

反抗期になった瞬間もしっかり覚えていて、中学生日記でちょうど反抗期を扱う話を放映していたのだけれど、それを見て初めて私は「反抗してもいいのか」と思えた。

それくらい洗脳されていたのかもしれないが、それはまた別の話である。

そうして怯えながら、そして反抗を覚えて成長した私は、人の感情にとても敏感になっていた。

しまいには、感情どころかその人の動きで何を求めているかを察し、該当するものを渡すレベルだったが、それはとてもしんどかった。

自分以外の感情が自分に入り込んでくる。

感情は心の大きな動きである。

他人のそれまでを感じてしまったら、当然の話である。

それがいつからか、自分と他人をきっちりと分けて考えられるようになった。

いや、感情に引っ張られていただけで元々そうだったのかもしれない。

そして今も時々感情に引っ張られることがあるので、何も変わってないのかもしれない。

ただ、付き合う人間を自分で選べるようになってからというもの、生きるのが少し楽になったことだけは確かである。

人間関係に余計な気を使いたくないし、使われたくもない。

私にとって余計な気使いは、エネルギーを消耗するだけだからだ。

先々また変わるかもしれないけれど、ひとまず今はこれでいこうと思う。