小春日和

だめなひとの雑記帳

ふふっ・・・っふふふふふふふふふ

私はこもった笑い方をする。

子供の頃、母親に、馬鹿笑いは下品だからやめなさい!と散々言われて育ったからだ。その本人は馬鹿笑いに近い笑い方をするのに、気づいていない。ばかめ。

一時期は、声を出して笑える人が羨ましかったけれど、今はこれでいいと思っている。

笑いといえば、私が人としゃべるのが苦手なのは、つぼのせいなんだなと思うことが増えた。

例えば「ふとんがふっとんだ」で、馬鹿みたいに笑える。

言われた瞬間から2拍間、布団がものすごい勢いで飛んでいくのを想像する。

そして、笑う。その光景が面白いのだ。なかなか分かってもらえないから、言わないけど。…それなのだ。分かってもらえないから、話してもしょうがないと思っていることが結構多い。

そういうことを喋るのは、大体面白がってくれるか笑い飛ばしてくれるような人に限定される。相手が冷めてしまえは、それはすごく無意味なことになってしまう気もするし。意味のないことなんてないのだけど、どうせなら分かってくれる人と、にやにや笑っていたい。共有していたい。そう思う。

そんなのだから、基本的にあまり喋らない。コミュ障に見えてもおかしくないくらい、喋らない。実際そう見えるかもしれない。

バイトも、殆どは働いたらすぐに帰っていた。京都に越す前に1ヶ月だけやったレンタル店のアルバイトの最後から2日目くらいの日、急に呼ばれた。ずっと話したかったそうだ。理解が出来なかった。こうしないと話せないから…すぐ帰っちゃうし、と、ジュースを買ってくれた。

次は、コンビニだった。同い年の男の子がいて、飲みに誘われた。その人と喋るのは面白かったのでついていった。やっぱり、「バイトだけしに来てます、って感じですぐ帰っちゃうからさ」と言われた。

それが普通じゃないのか、と疑問だった。

5つくらい年下の男の子もいた。どっちも、私が話すことを面白いと聴いていてくれた。まあ、酷いことをしたかな、と思うような出来事もあったけれど。

 

「こっちを見てるのに見ていないよね」「こうでもしないと、どっかいっちゃいそうで」そういうこともよく言われる。何を見ているのかといわれると、分からない。分からないけれど、見えるのは事実なのだ。目の前の人が持っているわたあめを端から少しずつちぎっていって中身をのぞくような、そんな感覚だろうか。分からないけれど。

どっかいっちゃいそうなのは、昔からだ。誰も知っている人がいないところにいきたくなる。誰も知らない、私の存在なんて気にもしない、気にしようがない。そういう中に佇んでいたくなる。「ほんとうは見えてないんだよ、君なんか」そう言われたら信じてしまいそうな、そんなところにいたくなる。そういうのがでてしまっているんだろう、多分。

物理的だったり環境的なものだったりでなかなか難しいけど、今も結構、殻をぽいっと捨てて、今度は何に入ろうかと品定めしたいくらいだ。いや、半ば引っ越してるのかもしれないけれど。私にとってはその程度で割りとふつうのことなのだけど、そうじゃない人からすると大そうなことらしい。

数年ぶりに電話がかかってきたかと思えば、「生きていてよかった」と言われたこともある。全く、わけが分からない。私がニートどもを残して死ぬわけがないだろうに、全く、何も分かっていない。

「分かってくれるから」と寄ってくる人は多いけれど、「分かってくれるし、分かるよ」っていう人は滅多にいない。「わかってくれるから嬉しい」人を見ているのは、妙にむなしくなる。それを揺さぶってしまう私がわるいのだけど。

 

どうやら私は、記憶力がよい方らしい。大概の出来事は印象的だろうがそうでなかろうが覚えているし、知識も教わり方で覚えてる。先生の顔と話し方、声、映像で全部覚えている。だからか、大体の人が「よく覚えてるな」と言う。

覚えていたいと思う反面、忘れられるのが羨ましいことも多々ある。

いい事も悪いことも大きいことも小さいことも全部が同じ大きさで箱のなかに並んでいるのだ。底の方のものなんかは見えないけれど、何かの拍子に鮮明に飛び出してくる。

何故かは分からない。何故かそういう風に出来てしまったのだろう。ほんとうに、わからない。

 

台風がきている。窓を開けて大丈夫そうだったから、髪を切りにいった。

途中から風が酷くなり、行くのも帰るのも苦労した。

前髪をかなり短くしてみた。視界良好だ。