小春日和

だめなひとの雑記帳

茶色に白に、時々黒。

気遣い屋で、内弁慶で、我慢強くて、本当にしんどくなるまではギリギリまで元気に振る舞う、強いいきものだった。

自分が可愛いことをよく知っていて、あざとい一面もあった。

そんな1号も、10月7日に旅立ってしまった。

11年ときっちり半年楽しく過ごして、3日かけて少しずつ片づけていくように旅立っていった。

そのあとは本当に何一つ残らず、きれいな死に方で、最後までよくできたいきものだった。

翌日に火葬をして、お世話になった病院に連絡をして、その次の日には死亡届を出して、大量の写真の中から見繕った写真を200枚近くプリントして、アルバムを買って、アルバムにしまって、それでも足りない写真を見つけてはメモリに移動し、その翌朝にも、前日に見当たらなかった写真を見つけてはメモリに移し、そうしてまた100枚ちょっとの写真をプリントすることが決まった。

人間の死後はとても忙しく、それは儀式によって心の整理をつけるためだと認識しているのだけれど、なるほど、よく考えられていると思った。

食事をすることを忘れる、ということは、日常的にまぁそれなりによく起こることなので、それに対しては何も思わないのだけれど、今回、初めて、物が喉を通らないということを経験した。

これまで生きてきて、それなりに色々な経験をしてきたし、その中には拒食なんてこともあったのだけれども、それとは全く違っていて、口の中に食べ物を入れて咀嚼しているだけの状態が正常に感じられ、それを喉に送り込むという概念が消えてしまっているというか、そもそもその器官があるということ自体を忘れ去られているというか、そんな状態で、飲み込むのにとても力がいるし、実際に喉はとても抵抗してきているし、それでも吐き出してしまう訳にもいかなくて、なかなか難しいものだった。

 

子供の頃以来だろうか。

何度も何度もくる涙の波に従いながら生活を送っていたのだけれど、昨日、一人になった瞬間に、押し寄せるような波がきて、それこそ犬が吠えるように、泣いた。

 

1号のいない部屋は、なんだか知らない部屋のようで、雰囲気が全く違っていて、それは引っ越しに向けて片づけを始める直前の部屋のようで、とても落ち着かない。

たった2.7㎏の毛玉が1ついないだけで、雰囲気というものは、空気というものは、ここまで違うものなのだろうか。

それだけ1号の存在が大きかったということは、よくわかってはいるのだけれど。

 

してやれることはやってきたし、1号もそれに応えてくれて、それはもう、見えない道を導かれるように色んな事柄を選択してきたのだけれど、その中に後悔というものは一つもなくて、1号が本当に最後の少しの力まで振り絞って生き抜いたのは見ていてよく分かったし、だからこそ、なんでこの子がとか、戻ってきたらいいのにとか、そういう気持ちも不思議なほどに一つもない。

ただ、ここにいないという一つの事実だけが深く突き刺さっていて、それだけが、とても辛い。ただただ、辛い。

 

どうしても、小さくてモコモコしてよちよち歩くいきものが見たくて、出かけたついでに、ペットショップを覗いてみた。

確かにそこには、見たいと思ったいきものが存在してはいたのだけれど、それは私が求めているいきものとは違っていて、これじゃないというか、それはそれ、これはこれ、というか。

そのことで、1号はきちんと1号だったのだと、再認識した。

 

視覚というものは不思議なもので、写真や動画をみていると、そこにいるものだと錯覚するのか、不思議と気持ちが落ち着く。

当然、もう二度と触るということはできなくて、それもしっかり理解はしているのだけれど、それでも、なぜか落ち着いていられるのだ。

 

愛というものはとても不確かなもので、それなりに生きてきてもやっぱりよくわからないし、本当に存在するものなのか、私にもあるものなのか、全くわからない。

嫌な思い、寂しい思い、辛い思い、たくさんさせたと思う。

それでも、分からないなりに、私は1号を愛することができていたのだろうか。

分からない。

けれども、分からないくせに、なぜか、1号は私のことを愛してくれていたのだということは、伝わっているような気がしている。よく分からないけれど。

 

ここまで書いて、ふとテーブルに目をやると、1号の毛が絡まったものが置いてあった。

今、部屋には私と2号しかいないし、2号はずっと籠の中にいた。

特に、何かをしたわけでもない。

いきものが旅立つと不思議なことがあるという話を聞くことがあったけれど、こういうこともあるのだろうか。

 

まるで急ぐかのように、毎日、色々なことが着実に片づいていく。

これまで長い間立ち止まっていたけれど、1号が旅立ってしまってから、モーターが少しずつ回りだしているような感覚がある。

こうやって毎日片づけていきながら、少しずつ日常の占める割合が増えていって、そのうちまた、動き出せるようになるのだろうか。

 

さて、洗濯をしなければ。