小 春 日 和

だめなひとの雑記帳

作文は、きらいだ。

感想文は、もっと、嫌いだ。

 

文章を書く仕事をしていると、作文とか好きでしたか?みたいなことを聞かれることがあるが、はっきり言わなくても、大嫌いだ。

文章が嫌いなわけではない。寧ろ、表現方法として、好きな部類に入る。感想文と数学の証明問題なら、後者の方が好きだ。すっきりするからだ。

学校で習う作文や感想文というのは、自由に書きなさいと言いながら、多かれ少なかれ指導者や評価者の意図が入っている。

題材のこの部分でこういう風に”感じ取ってほしい”、"思ってほしい"、"気付いてほしい"など、”中学生なのに、こういうことに関心を持っているのがすごいと、大人が他の生徒に見本として示したくなる文章”が良しとされる。道徳の教科書のような、意味のない洗脳された文章が出来上がる。

小学校低学年までは、まだよかった。年齢を重ねるごとに、”道徳的な考え”が理解できなくなる。どう感じるのかが「正解」までは分かっても、どういう経緯でそういう思いにいたるのかが全く想像つかなかった。仕方がない、興味がないのだから。

こう感じるだろう、ああ感じるだろう、それらは全て書いた人間の主観を通した憶測でしかなく、それが多数派か少数派かどうかの違いだ。

それに沿って、思いもしないことを書く…その作業と、それを選んだ自分が嫌いだったのだ。

 

ドナーカードができたあたりだろうか。自分の親に、子供が脳死したらどうするかというのを書いてもらう宿題が出た。馬鹿じゃないの、と一蹴された。そこだけは同意する(因みに私は、提供しないにチェックを入れたカードを持っている。唯でさえ存在したくないと思うのに、自分の一部が誰かのどこかで生き続けてるなんて、文字通り死んでも死に切れない。更に蛇足だが、結果的に死にたいに一致してしまうのであって、直接的に死にたいわけではない。あくまでも、存在したくない方だ)。

いくら意思や知能などが備わっているとはいえ、人間もただの動物だ。尊厳だなんだと言ったところで、それらは後付された言葉によって表現されてしまったもので、実際にそんなものがあるかというと、存在しない。死んでしまったら、何をしようが、ただの生き物の死骸なのだ。そこに感情はあれど、それ以上のものがある必要などあるのだろうか。

 最近そんなことを考えているうちに、全てがどうでもよくなってきている。別に、投げやりになっている訳ではない。少しだけ面白く、あとはあるがままに生命活動を維持するのに、それ以外のことは必要ないのだ。

 

この年になると、結婚の話をされる。生き物として異性とくっつくのは自然だと思う。だが、そこにわざわざ”婚姻”という契約を結ぶのが”当たり前前提”で話されるのが面倒くさい。ちゃっかり社会におさまって生きているくせに、何を言っているのだと思わないこともない(安楽死が許されるなら死ぬけど。あ、ニートはしっかり看取った後でお願い)。”当たり前”に染まっていられるのが不思議で、何の疑問もなくそのままでいられるのが羨ましいだけなのかもしれない。少数あるいは表に出さないだけでそういう人も存在するだろう。理解しろとは言わない。ただ、そういうのもいるのね、と流してほしい。こうするのが普通だ、人としてそれはどうなの、そうするのが当たり前を、なぜお互いに押し付けあわねばならぬのか。

「お前は牛か。私はモモンガで、こいつはモモンガに見えてムササビの類なんだよ。」これじゃだめなのか。分かりやすさの上で動物の名前を出したが、それも不要だと思う。みんな違ってみんないい(だから認め合え)なんてくそくらえだ。ほっとけよ、めんどくさい。

そしてこれもまた、私の押し付けなのである。

 

好きでこの精神を持って生まれた訳ではないし、好きでこの肉体を持って生まれた訳でもない。まして頼んだ訳でもなければ、生まれたかった訳でもない。だからせめて、ただの生き物でいるくらいはさせて欲しい。いや、勝手にしているけど。

そうして最近私は、自分が自分好みの性能を持っていて、それを活かすことにも長けていることに改めて気付き、まあ…悪くはないかと思い始めたところである。

得手不得手を除いても、大半の分野で何をやっても人並み以上に持っていく方法を見つけられる。しばらくはそれをくるくる回して、眺めてみようと思う。

 

人間の言葉というものは、必ず一度、受け取り手の解釈を通して受け取られる。大半のやり取りは伝わっていない。そしてそれに気付いていない、あるいは、気付いていても面倒だからスルーする。答え合わせのしようがない。そして、それで全ては回る。頭の中ですら何も言語化せずに、それこそ言葉を喋らない動物のようであったらと、たまに考える。

 

年を取るごとに、わけの分からないいきものになる。