小春日和

だめなひとの雑記帳

なかなか

難儀だなあと思う。

第2回目のいい娘キャンペーン終了から、3ヶ月近くが経った。

連絡は1通の事務連絡メール以外は全然取っていない。

それは、メールで関わりたくないと告げたからというのが大きいだろう。

だけど、それはそれで、「ああ、私とはその程度の存在なのだな」と思ってしまうのが、面倒だなと感じる。

母親と最後に電話で話した内容はよく覚えている。

「どうして悲劇のヒロインぶるのか」という問いに、「ぶってないわよ!本当にそうだから言ってるの」と返ってきたからだ。

真っすぐ、母親自身と、そして私と向き合ってくれないだろうか。

長年そればかり考えていたけれど、母親から出る言葉は雑なものばかりで、むなしくなるだけだった。

他人は変えることができない。

そんなことは分かっていたつもりだった割に、もういいかな、と思うのが遅すぎた気もするけれど、肉親と考えると、そういうものなのだろうか。

よく分からないけれど。

 

相変わらず、私の感情のようなものは、どう表現を当てはめて出してあげればいいかがイマイチよく分からない。

でも、こうだろうなという想像はつくという話をカウンセラーにしたら、ちょっとオーバーに反応して、感情を出す練習をしてみましょうということになった。

早速試したら、友人に、そういう私は面白いと言われ、また新しい自分像を見ることが出来て、私も面白かった。

 

セルフカウンセリングは、しないことになった。

重ための過去を持つ人間にとっては、色々思い出したりしてパニックになってしまうこともあるらしい。

代わりに、外堀から少しずつ剥がしていって、最後に芯を抜くという、ちょっと優しめの方法をカウンセリングでしていくことになった。

それでも、それはそれで辛いものなのだけれど。

 

動かすつもりはなかったというか、日常にプラスアルファして自分のケアができればと始めようとしたことが、カウンセリングを受けるようになり、母親への電話もぴたりと止められ、いろいろと動き出している。

そういう時期だったのかもしれないけれど、なんだか不思議だなと思う。

感情に、蓋

なかなか頑丈な蓋があるような気がしていた。

感情がない訳ではなく、何かを感じていることは分かるのだけれども、それがどういうものなのか分からないというか、どう表現していいのかわからないというか。

恐らくそうだろうなと思われるような反応を返している時もあったりして、それがとてもつまらないと思うようになった。

もちろん薬で上下のぶれを抑制しているところはあるだろうけれど、それにしたっておさえられすぎてやしないかと思い、カウンセリングを受けることにした。

最近私はセルフカウンセリングを始めたばかりで、でも、それも一人だと限界がありそうな気がして、手助けしてくれる存在を探していたところだったのだ。

そして、1回目を終えた。

ここまで何を話したらいいか分からなくなるものなのだな、という回だった。

ぽつりぽつりと思い出したことを話しては、辛かったねと言ってもらえるのだけれど、辛かったのかなぁ?わかんないなぁ…という感覚で、そうですねというのが精一杯だった。

そんな中でも、2回ほど涙が出たポイントはあって。

きっと、そういう綻びのような部分から、少しずつほどいていくのだろうと思う。

 

第2回目のいい娘キャンペーン終了から、約2ヶ月。

12月はまだセルフカウンセリングのことも何も知らずに、どうしてそんなことをしてしまうのか分からないまま気遣う電話を2、3回かけてしまったのだが、今月は、ノートに今まで言われたこと、されたことなどを書いていって読み返し、こんなにひどいことをされているのだから気遣わなくてもいいだろうというメンタルになれたお陰か、電話をかけることをせずにいられている。

 

このまま、すん、と何事もなかったかのように生きていきたい。

そのために、今までのことを掘り返して、一つ一つを自分で感じて片付けていく必要があると考えている。

たぶん、進むほどにフラッシュバックが起きやすくなったりするのだろうが、そういう時もちゃんと相談して、向き合っていきたい。

そして、これが最後の戦いになりますように。

今日も

頭の中を、ぐわっとした痛みになりきれない違和感が陣取っている。

もう、またか、とすら思わなくなってしまった。

今日はこういう日か、わかった。それだけである。

そして、その、数センチもあるかどうか分からない小さな小さな波に乗って、今日できるだけのことをする。

明けてからもずっと、そういう毎日を積み重ねている。

今年は特に、やるぞ!というような意気込みもなく、ぬるっと新年に突入したので、これでいいのかと少しだけ不安に思いはしたが、新年だからと変に張り切って大きな波を作りだすよりかはまだ健全なのかもしれないと、考え直したところである。

 

特に書きたいことも書くべきこともないのだけれど、何かしていないとうっかり母親に電話をかけてしまいそうなので、とりあえず座って手を動かしてみた。

 

最近は、どうやら人とコミュニケーションに飢えているらしい。

久しぶりにやった16タイプの性格診断では、いつもは思いっきり内向的なのに、珍しく外向的な方に寄っていたからどうしたものかと思っていたが、恐らくそういうことだろう。

実際に、昨年からはネットで知り合った人と作業をしながら通話をしてみたり、定期的にお互いのやりたいことの進捗を確認し合ったり、以前よりも少しだけ人と接することが増えた。

とはいえ、頻度はそんなに高くないので、1回1回の特別感が増しているのかもしれない。

かなり前に、人の会話を聞いているだけでも頭が働くようになるねと、夫に話しかけたことがある。

そして自分も少しずつ喋れるようになり、ちょっとした作業ができそうなコンディションになるという話をすると、大抵の人は外でそれをしているんだよと言われた。

普段、いかに夫以外の人と話していないかが露呈したわけだが、この出来事がなければ人と話すことで生じる効果というものに気付けなかっただろう。

 

人と話をすることは、時として疲れることがあるのだけれど、そういう場合は大抵、自分と向いている方が違っている。

そして幸い、最近はそういう人とは出会っていないので、同じような方を向いた、でもいろんなことが違う人たちとゆるゆる交流をするのが楽しみになっている。

なかなか厄介な

harudama.hatenablog.com

生き方をしていたんだなあと、過去のブログを漁って思い出すなどしていた。

思い出してみると、悩んでいるのは大抵人との距離感のことだったような気がしないでもない。

世の中には色んな人がいて、その色んな人の中に自分も含まれるはずなのに、なぜだか多数派に当てはまることはほとんどなくて、当たり前のようにされるよくわからない会話の中で右往左往しながら自分の居場所を探し、やっと口を開いたかと思えば少しズレていた、なんてことがよくあったように思う。

今、あの世界にもう一度放り込まれて同じように過ごせと言われてもできないくらいには周りに恵まれている。

現在私の周りにいる人たちは、私や相手のあれこれをお互いに「そうなんだね」と受け止め合える人が大半だと思う。

 

20代半ばくらいまでの私は、職場という集団の中で、うまくやらなくては、嫌われないようにしなくてはと必死な反面、意図せずとも聖域に土足で踏み込んで来ようとした人に対しては異様に距離を取ってしまい、トラブルになることがあった。

今思えばそういう生き方をしているから当然なのだけれど、当時はそれにすごく疲弊して、このブログに駆けこんでみたり、家でやけ食いをしてみたり、犬をこれでもかというほど可愛がったりしてなんとかやり過ごしていた記憶がある。

そんな自分だから、明るいところにいてはいけないと思っていたし、職場の飲み会なども、自分なんかが…と参加せずにいたりした。

そもそも明るいところ・暗いところなんてないだろうに、自分の中にそういう概念を作って、ただただそれに怯えていたのだと思う。

 

当時は「私は自分の巻貝に入っているので、そのへんに転がしておいてください」という感じだったのだけれど、今は「その辺を泳いでいるので、適当に捕まえてください」くらいにはなれたのではないかと思っている。

今度こそ

harudama.hatenablog.com

 

いい娘キャンペーン終了をしたい。する。するんだ。

そうやって1年以上が経過してしまった。「母という病」は、まだ読めていない。

一体何をやっているのだろうかと思うのだが、電話をせずにはいられなくなってしまっているので、一種の依存か新手の自傷行為か、その辺なのだろう。

とうとう、手帳の週間タスクに「母に電話をしない」が追加された。

ここまでしないとできないのだろうかと自分に失望しそうになるが、それだから呪いなのだという話で、これは自分で断ち切るしかないのだろうと思う。

それにしても、歯磨きなんかの日常の必要なことですら毎日同じことの繰り返しで面倒だと感じるのに、電話に関しては律義にかけるのだから、本当に不思議である。

 

人と話をするとき、その人の何に興味を持っていいのかが分からないことが、よくある。

その人には興味があるはずなのに、漠然としていて、考えようとすればするほどわからなくなって、外側から見た私は無言になってしまう。

日常で興味を持たれることが少なかったのだろうか。

確かに、母親は自分にしか興味がない人なので、母親の愚痴や何かをいろいろと聞かされた記憶はあるけれど、母親に話を聞いてもらった記憶はひねり出して出てくるかどうかだ。

実際にそれが関係するのか分からないけれど、芋づる式に引っ張り上げられてきたので、書いておく。