それが最近の私の口癖であり、起き抜けと夕方に必ず一度は発している言葉である。「脳が疲れているんだよ。」と言われたので、少しでも脳みそに優しくしてあげようと、バナナミルクを作って飲んだところだ。がんばれ、セロトニン。よくわからないけれど。
少し前に、同居人ができた。
1人で生きていくものだと思っていて、周りとも中途半端に距離を保ち続けていた私らしくないといえばそうなのだが、何より自分自身が一番驚いている。
他人(私にとって、自分以外はすべて他人認識だ。たとえ親だとしても、生命単位が別な時点で他に分類されるのである)と生活を共にするなんて完全に無理だと思い込んでいたのだから、当然だろう。
そうするとたちまち、恋愛だのなんだのの括りで縛ってくる輩が多いのがとてつもなく嫌だ。仮にそうだとしても、そうだと断定しなければならないものなのだろうか。
ただ単に考えが合い、一緒にいても苦じゃなく、さらに一緒に成長できる部分が多い、それだけなんだけれど。生活費も半分になるんだし、理由は十分だ。
もちろんその考えはその人たちの物差しではかったもので、こちらの物差しとは全く関係がないのだけれど、なぜかわざわざその物差しで殴ってくるのだから理解ができない。
いや、心理学上(でいいんだったかな?アイデンティティとかの)は理解できるのだけれど、自分の不安くらい自分で解消しろばかものよとしか思えないのだ。
そういう話が普通にすんなりと通じる人は今のところ片手で余裕があるほどしかいない。ようやく見つけた理解者のうちの1人なのだ。
外はとにかく生きづらい。
知らない間にいろいろな枠にはめられて、それ前提で話をされる。それを読み解きながら当たり障りのない会話からどう切り抜けるかを考える。とても、面倒くさい。
今は失業者として、うつ病患者として(診断書ではそうだった)、おとなしくしている。正直よくわからないけれど。
きちんと朝起きられるし、家事もできる。ニートたちの世話だってできるのに、脳みそだけは異常に疲れていて、室内で大事なものをなくしたり、除湿器の水を持ったまま部屋に来てしまったり、頭の中と口とで発する言葉が違って訳の分からないことになったり、そんなことばかり起きているのだ。私からすれば、ちぐはぐでちぐはくで、それこそ訳が分からないのである。
そしていつかこの文章を見て、やっぱりいつかのように、「お前、休めよ。」と思うのだろう。だから私は、しばらく休もうと思う、社会勉強というものをしながら。