小春日和

だめなひとの雑記帳

いきかた


2年前も1年前も、状況や考え方に多少の差はあれど、色々と消耗をしながらいき続けていたらしい。眉間のしわは深くなり、新しい殻を求めて動き出すことを考え始めた。

頭はいつもどっしりと重い痛みに包まれていて、薬からはみ出た情緒が不安定に飛び回る。大半は薬に抑えられているのだから実際はほんの少ししか出ていないのだけれど、薬に覆われた下の部分を考えると、大したことあるのかもしれない。

そして相変わらず生き辛いし、いつまでたっても”まとも”には近づけない。寧ろ近付く気もないのかもしれない。そんなことはとっくに分かっていたはずなのに、気付くといつも忘れてしまっている。記憶力はいいはずなのに、そういうことは忘れるらしいのだから、全くどうかしている。

 

たまにはしっかりと書きたいのだけれど、上手く頭が回らない。エネルギーがほしい。

相変わらず君は、

僕のことを忘れて鍵をかけてしまい、それをマスターキーで開けるのが僕の時々の大切な用事になるのだ。

 

1年前のブログ「はてなは、」などを振り返りませんか?

なんてメールが着たので、そのメールにあった記事を貼り付けてみる。

結果が、この出だしである。

 


そうして1年経った今、同じように拾い物をし続けている。箱は、どれくらい埋まっただろうか。それとも、箱自体が大きくなったのだろうか。

辛い

というものを正面から受け止めるというのは、なかなか大変なことである。

誰もそうだといえばそうなのだが、1~3割しか伝わっていないということを常に認識しながら、自分の意識に入らない程度の適当さを保ちつつ、たまに出てくる欲求を出しかけては慌ててしまいこみ、隙間風のように人と人との間をぬって通り抜けるのが毎日のことである。

いくら意識に入らないようにしていてもいつもそれができるとは限らないので、時々うっかり失敗しては蒟蒻のようにぐんにゃりと部屋で丸まってしまう。

 

 

すごく疲れたのだ。

ほんの1%を見て、その人にしか知らない100%の枠の中に押し込められることに。

はめるだけなら、好きにやってくれて構わない。頼むから、すり合わせようとしてくるな。お前の概念はお前だけの、私の概念は私だけのものである。よそはよそ、うちはうちと教わらなかったのか。家で子供にそう言ってたりしないのか。

 

隙間風をやっていると、すごく疲れる。それは分かりきっていた。だからなるべく最小限に抑えていたこともあったのだけど、それはそれでとても面倒くさかった。

結局、何をやっても生きづらいものは生きづらいのだ、社会にいる以上。

 

もしかするとこれを、五月病というのだろうか。

でも幸い、何かを感じとって反応ができるくらいには回復しているようだ。

 

もしここが一軒家の地下室だったとしたら、私は気がすむまでこうしてみたい。

 

    〃〃∩  _, ,_
     ⊂⌒( `Д´) < ヤダヤダ!
       `ヽ_つ ⊂ノ
              ジタバタ

    〃〃∩  _, ,_
     ⊂⌒( `Д´) < ヤダヤダ!
       `ヽ_つ__つ
              ジタバタ

      _, ,_
     (`Д´ ∩ < ヤダヤダ
     ⊂   (
       ヽ∩ つ  ジタバタ
         〃〃

    〃〃∩  _, ,_
     ⊂⌒( つД´) < ヤダヤダ
       `ヽ_ ノ ⊂ノ
              ジタバタ

       ∩
     ⊂⌒(  _, ,_) < ヤダヤダ…
       `ヽ_つ ⊂ノ
              ヒック...ヒック...

       ∩
     ⊂⌒(  _, ,_) 
       `ヽ_つ ⊂ノ  zzz…

可愛らしい

という言葉は、このためにあるのではないだろうか。 このブログを読んでいる人なら、ある程度の人は気付いているかもしれない。もしくは、ただ読むための物だけと認識しているから、そもそもそんなことが書いてあったということすら覚えていないかもしれない。

私は、女学生のような可愛らしいおばちゃんが大好きだ。

2、3人で連れ立ってコンビニに来店し、子犬なんかがじゃれて遊ぶようにころころと店内をまわって新しいものを見つけては、報告しあう。

あるいは、アルバイトの初出勤日に挨拶したのが、同年代では私だけだったというだけで覚えていてくれたおばちゃんは、「もう死んじゃうだけだから!」と言いながら、元気に卓球台の周りを跳ね回っている。

この前の記事書いたレジのおばちゃんは、今日はいなかった。

 

ビタミンが足りていない気がしたので、オレンジを2つ買った。 それから安売りの卵と肉を捕まえてカゴに放り込み、そのついでに、お勤め品の明太子を労わるように卵パックの上に乗せた。 一通り揃えてからレジを通って袋詰めをするのだけれど、詰めていると、おじさんが1人、卵パックを持ってきて、台の上に乗せた。

どうやら奥さんと一緒に買い物に来ているらしい。お出かけ用の背広を着て、ハットをかぶっている。

しばらくして、おばちゃんが来た。 どうして可愛いおばちゃんというのは、そろいも揃って身長150~155cmくらいで、髪の毛はパーマがかってて、少女のような笑顔なのだろうか。

おまけに、「しょうが焼きはあんまり作ったことなくて…ちゃんと作れるかしら。まずいかもしれないけど、我慢してね。」なんて言っている。

おじさんは物静かな人だったけれど、2人の雰囲気はとてもあたたかかった。それはもう、2人にお礼を言って帰りたいくらいだった。

 

そのおばちゃんの言葉選びはとても上手くて、でも日常会話ということは、素のままで出てきた言葉たちなのだろう。 どうせ長生きしてしまうのなら、ああいうおばちゃんになれたらと思う。

僕の鳥

一通りの用事を済ませて家に帰り、どうせ明日がセールだしと思いながらスーパーのネットチラシを見ていたのだが、そういうときに限って今日がセールだったりするものだから、どうしようもない。何がどうしようもないかって言うと何でもないのだが、しいて言えば、明日気付いたのなら諦めもついたのにとか、この暑い中にまた出て行くのかとか、でも少しでも節約したいし…という思いだろうか。

そうして私は、1週間分の鶏胸・腿肉と、卵を手に入れたのである。勿論レジは、あの可愛いおばちゃんだ。土日ということもあってかなりの数のレジが開いており、混雑もしていなかったので、おばちゃんのレジを探してそこに行った。最近では、いる時間帯も把握してきてしまっている。

デパートのような特別丁寧な接客をするわけでもなく、かと言って乱雑に商品をカゴに入れ、無愛想な接客をするわけでももなく、その間のちょうどいいところがとても好きだし、自分が許される気がするのだ。

かつてコンビニ店員だった頃、時給の割に接客態度や気遣いなど、全てをフルで出していた。年数を追えば追うほど、小銭を投げて置くような人やただサンドバッグを探しているような人など、きっと疲れてたり荒んでいたりイラついていたりしているんだろうなと思われる人の率が増えていった。それでも馬鹿みたいにニコニコと接客をしているのが、すごく嫌になったこともある。

だからだろうか。今行くコンビニは、愛想って何ですか?という勢いで下手をすればいらっしゃいませすら言わないし、聞き返さないと聞き取れないくらい声が小さいし、レシートなんかも半ばこちらに飛ばすような形で渡してくる。それでも許されているのが、羨ましい。もちろん、ニコニコとしていたのは自分だし、それはそれでお客さんに色々貰ったりといい事もたくさんあったし、しなければ良かったなどとは思っていない。ただ、何とも言えない思いだけがぐるぐると渦巻いて、残っている。

 

相変わらず”まとも”な生活を送るのに精一杯で、精一杯なのにまだ”まとも”の最低ラインすらクリアしていない。1年前はできていたことなのだけれど。

その間変わったことといえば、人と接することを増やしてしまったことだろうか。

無理なものは無理なのだ。