小春日和

だめなひとの雑記帳

波乗り日和

大体2週間~1ヶ月に1回くらいのペースで波の切り替えポイントがやってきて、落ち着いたり、なんだかテンションが高くなったり、反対に生きているのが嫌で嫌で仕方なくなったりしする波に乗せ換えられているような日常だ。

今は生きているのが嫌な方で、何があるわけでもないけれど、生きていること自体が辛くてやるせない思いに足をつかまれて逃げられないような、そんな感じである。

それは記憶している限りだと子供のころからで、生の違和感とは死ぬまで切り離せないのだろう。

だから大したことないといえばそうなのだけれど(別に自殺願望や希死念慮があるわけでもない。それとはまた違う気がする)、しんどいものはしんどいので、その辺とうまく付き合っていけたらと思ってはいるものの、相手はそうでないようで、足をつかんでみたり上に放り投げてみたり、好き放題遊ばれてしまっている。

そういう時の私は、起き抜けに開口一番「疲れた」と言うので、これが出ると、「来たな」と思うようになった。

こうなると、予約を取るとかちょっとしたことにでも、悪い方へ行くしかないというような被害妄想をし、しばし悩んで電話をして解決すると、ほっとするかと思いきや、あれはああいう風に取られたんじゃないだろうかとか、そういうしても仕方のない大反省会を頭の中で繰り広げてしまう。

それは何度打ち消そうと頭にクリーナーをぶっかけても、その材質には効きませんよというように、クリーナーの隙間から顔を出し、上半身が出て、下半身、最後には全身と、完全に元通りになってしまうのだ。

全く、厄介なことこの上ないことである。

そうして記憶のロード―ショーが脳内を流れている間、無意識に「バカだからなー」などと言ってしまっているので、これもやめたいことが1つ増えてしまった。自己暗示ほど恐ろしく厄介なものはないと思う。

記憶のロード―ショーも刷り込みにしかなり得なくて、それはただのフラッシュバック製造機でしかないのに、それを上手くコントロールできないのは、私の映像記憶力が人よりも強いからなのかもしれないと、最近考えた。

 

先ほどまで、診察に持っていくためのノートを書いていたのだけれど(考えながらしゃべるのが苦手で、だんまりになりながら考え込んでしまったり、全然関係ないところに注意をひかれてしまうところがあるので、診察なんかのときにはノートやメモを持っていくようにしている)、これを持って行った方が早い気がしているので、そうすることにした。

たらればっていうと

なんだかおいしそうだよね、"ればにら"みたいで。"ちーたら"とかさ。

 

今週のお題「私のタラレバ」

 

たらればっていうのは好きじゃなくて、「あの時、こうしておいたら…」と思ったところでやっぱり過去には戻れないし、仮に戻れたとして現在の自分を捨てることになる。更には、過去に戻って違う選択をしたところで結局またたらればしてしまったら大まかには同じことだし、何が言いたいかっていうと、そういうのって宇宙やなんかみたいで面白いですよね、っていう。

ああ、でも1つ挙げるならば、私に今の倍くらいの"ゴーイングマイウェイ感”があれば、あの時へこたれずに自分のサーブで点取り虫をやりながらバレーを続けられただろうし、そうでなかったにしろ、別の部で面白いことをはじめられたのかもしれない。

それくらいのことしか思いつかない。

 

仮に母親が正常だったことを望むと私は存在しないし(それはそれで希望したいが)、父親がもっと若ければ、私は反抗期を迎えて父親嫌いになり、そうしている間に亡くなってそれはもう後悔したんじゃないかと思う。

結局のところ今の私はその時の最善で生きてきているだろうと感じているし、そうならばたらればなんて必要はない。そうしている暇があったら、もやしの根っこでもちぎってるだろう。あれ、ないだけでだいぶ違うよね。

 

お題からそれてしまったけれど、それをしてしまったら最早ただの小中学生時代に書かされる作文と変わりないので、このままアップロードしてやる。

 

みのの中のあの子

昔は、ミノムシがとても好きだった。

あの見た目に心底惚れこんでいて、見つける度に枝や壁から外しては、てのひらの上で転がして弄んでいた。彼らにとっては大迷惑な話である。

一度だけ、子供ながらの好奇心で、みのをそっと剝いでいったことがある。

そこから出てきたのは、きっとかわいらしい虫が入っているんだという期待とは裏腹に、茶色くて細くて少しげじっとした、変な虫だった。

今でこそかわいいと思うのだけれど、当時はそれがなんだかつまらなくて、確か、殺してしまったと記憶している。そうやって生死について学んでいくものだとは言うけれど、それにしては私はたくさんの生き物を殺してきすぎたのではないかと、ふと罪悪感にかられることがある。

だから今は、マンションの中や職場内などで虫やトカゲを見つければ、毒や針のない限りは素手でつかんで外に出すようにしている。ただの罪滅ぼしなのだけれど。

そんな、ミノムシのような生活も、もう5か月目に入ろうとしている。

今月は特に悲惨で、スーパーには3回くらいしか行ってないんじゃないだろうか。ネットスーパーにもお世話になった。

それくらい、調子が悪かったのだ。

今日は午前中は布団の中で丸まっていたのだけれど、それがどうしてか、急に外に出たくなった。食料も減ってきていたので、スーパーに行くのに丁度良い条件が2つそろった。今、カーソルのせいで、食料が”お食料”になっていた。上品なパソコンである。

ニートたちに食事を用意した後、いそいそとスーパーに出かけた。その帰り道、なんとなく空を見た。突き抜けるような青空というのはこういう色のことなのだろうか、と思うほどにきれいな空色をしていた。

雲は出ていたのだけれど、まっすぐとした台のような雲で、その奥に空色が広がっていた。私は英語は好きだけれど、最低限の教養しかない。そのレベルでの解釈なのだが、Whole new worldの歌詞のclystal clearというのはこういう感じなのだろうか、と思うような色だった。

 

外に出るのはなかなか悪くないということは知っている。

それでも、出ることを体全体が拒否してしまうこととがある。

そういうときでも、とりあえず窓をあけて眺めてみるだけでもいいのかもしれないと思った午後だった。

明けていたらしい、

というタイトルで、以前も記事を書いたような覚えがある。どうだっただろうか。

そして明けたどころか、だいぶ過ぎている。

いつの間にか、ブログを作って4年が経ち、年が明け、新年でとまっていた外の空気が完全にもとに戻っていた。

 

私といえば、相変わらずミノムシのように毛布や家に引きこもりながら、時々やむを得ない用事のために外に引きずり出されると、そのあとは数日間一切外に出ず、大人しく資格の勉強や絵、ゲームに時間を費やしている。

世間ではニートとでも言うのだろうか。しかし、働きたくないわけではない。ただ、現在ある会社の中から自分に合った殻を探すよりは、自分の好きな材料を集めて糊でくっつけて、自分に合う殻を作る方に視点を移しただけで。

結構な無茶をして700円台の時給と800円ほどの時給で17万くらい荒稼ぎした時期もあった。そういうことを何も考えずに結構していたのだから(自分の安売りである)、そろそろ自分とと家にいるニートたちを守ることだけに時間を使ってもいいだろうと、やっと思うことができるようになった。働くための生活ではなく、自分の楽しい生活のための仕事である。明太子食べたい。

 

そしてやっぱり相変わらず、人としゃべろうとして頭に言葉が浮かんでも、きちんと文字で浮かんでいるのに読めなくて言葉が詰まってしまうし、思っていることと全然関係ない単語が口からはみ出てしまっていることもある。

鬱病と診断されているのだが、なるほど、脳の病気だと身をもって実感した。何かを考えていても、いつもの道を通っているつもりが、全然違うところへつながる道に知らない間にすり替えられているような感じがする。

これはこれで面白いとは思うのだけれど、まじめな話になればなるほど厄介にもなる。

 

最近、北野勇作の「カメリ」という本を購入して、1日1セクションくらいのペースで読み進めている。文庫版なのだが、表紙や各セクションの扉絵がいちいちかわいらしくてたまらない。

役所に行って、駅前に行って、あちこち用事を済まして最寄り駅まで帰ってきて、なんだか寄り道がしたくなって本屋に入った。その時に衝動買いした本である。

衝動買いとはいえ、この人の書いた「どーなつ」という本がとても気に入っていたし、文体もとても好きだし、何より話や視点も面白い。もちろん、一部流し読みしてから購入はしている。こういう風に、誰にするわけでもなく弁解してしまうあたりを、私は組みなおしていかないといけないのだろう。

たまには、衝動買いだって、してもいいのだ。

話がそれてしまった。

この本に惹かれたのは、タイトルや表紙、作者はもちろんんなのだが、帯に書いてある 「我らがカメリはなんと可愛く、残酷で、なんとステキな子であろう」森見登美彦 というコピーがはまってしまったからだ。

それはちょうど、二足歩行で立ち上がって買い物かごを片手にさげている亀の、下から1/3を覆っていて、まるで自己紹介文のようになっていたのだ。ちなみに帯は黄緑色である。

私は、誰も救われないような、冷たかったり残酷だったり話が好きだ。オチをみて、「ほら、やっぱりそうだよね」と変に安心する。これもまた、私の何かしらが歪んでいるのだろう。「そうだよね」ということは、そういうことだと思っている。

この話の結末はまだまだ大分先だけれど、きっと大好きな本になるだろう。なんだか、そんな気がしている。

「何もしてないのに、疲れた。」

それが最近の私の口癖であり、起き抜けと夕方に必ず一度は発している言葉である。「脳が疲れているんだよ。」と言われたので、少しでも脳みそに優しくしてあげようと、バナナミルクを作って飲んだところだ。がんばれ、セロトニン。よくわからないけれど。

 

少し前に、同居人ができた。

1人で生きていくものだと思っていて、周りとも中途半端に距離を保ち続けていた私らしくないといえばそうなのだが、何より自分自身が一番驚いている。

他人(私にとって、自分以外はすべて他人認識だ。たとえ親だとしても、生命単位が別な時点で他に分類されるのである)と生活を共にするなんて完全に無理だと思い込んでいたのだから、当然だろう。

そうするとたちまち、恋愛だのなんだのの括りで縛ってくる輩が多いのがとてつもなく嫌だ。仮にそうだとしても、そうだと断定しなければならないものなのだろうか。

ただ単に考えが合い、一緒にいても苦じゃなく、さらに一緒に成長できる部分が多い、それだけなんだけれど。生活費も半分になるんだし、理由は十分だ。

もちろんその考えはその人たちの物差しではかったもので、こちらの物差しとは全く関係がないのだけれど、なぜかわざわざその物差しで殴ってくるのだから理解ができない。

いや、心理学上(でいいんだったかな?アイデンティティとかの)は理解できるのだけれど、自分の不安くらい自分で解消しろばかものよとしか思えないのだ。

そういう話が普通にすんなりと通じる人は今のところ片手で余裕があるほどしかいない。ようやく見つけた理解者のうちの1人なのだ。

 

外はとにかく生きづらい。

知らない間にいろいろな枠にはめられて、それ前提で話をされる。それを読み解きながら当たり障りのない会話からどう切り抜けるかを考える。とても、面倒くさい。

今は失業者として、うつ病患者として(診断書ではそうだった)、おとなしくしている。正直よくわからないけれど。

きちんと朝起きられるし、家事もできる。ニートたちの世話だってできるのに、脳みそだけは異常に疲れていて、室内で大事なものをなくしたり、除湿器の水を持ったまま部屋に来てしまったり、頭の中と口とで発する言葉が違って訳の分からないことになったり、そんなことばかり起きているのだ。私からすれば、ちぐはぐでちぐはくで、それこそ訳が分からないのである。

そしていつかこの文章を見て、やっぱりいつかのように、「お前、休めよ。」と思うのだろう。だから私は、しばらく休もうと思う、社会勉強というものをしながら。