小春日和

だめなひとの雑記帳

いつの間にか

1号が旅立って、5年が経とうとしている。

いつでも、何があっても、そっとくっついていてくれる、ぬくい小さな相棒だったのだけれど、もらったものはものすごく大きなものだったと思う。

今の犬は、「僕、キッズ!」とでも言っているかのようにふるまう犬で、相棒とは程遠いのだけれど、それがまた可愛いのだ。

27年間犬と暮らしてきて、同じ犬でも、人間と同じように個性があって、それがまた全く違うものだということを学んだ。

それに気付いたのは、今の犬を迎えてからなのだけれど。

 

最近、よく、犬猫の保護動画を見る。

心を痛めることが多い動画が大半で、それなのにどうして見るのだろうかと思うのだけれど、少しずつでもそういう現実を知って、何かできることがあればと考えている。

今は無職みたいなものだから何もできないけれど、そして自分と1頭の犬の面倒で精一杯だから保護活動はできないけれど、いずれ余裕がでたら、保護団体に寄付するというささやかな目標がある(もちろん、保護団体の役目がなくなってしまうくらいになれば一番いいのだけれど)。

ようやく

心が動き始めたようだ。

毎日、ほぼ1日中家にいると、夫以外の人と話したくなることが増えたので、作業通話というものを始めたところ、途端に頭が働きだした。

聞くだけのことも多いのだが、それでも十分に頭を使うらしい。

おかげで、1月から色々と動き出したいなと思っていたことに、予行練習として前倒しで少しずつ手を付けはじめることができている。

作業通話という、人と話す場所ができたので、迷った末に母親に電話をしてしまうということが減りはじめた。いい傾向である。

 

いい娘キャンペーンをやめて2ヶ月半。

harudama.hatenablog.com

早速、漬け物の催促がきたのは、まったく理解できなかった。

後日詳しく聞いてみれば、実家にもお歳暮を贈ったからと催促をしていたようだ。

彼女は、身内にはいわゆる常識というものが結構ゆるくなるようで(常識、なんてあってないようなものだけれど、そこは一旦置いておく)、近しい他人としか認識していない私にとっては気持ちの悪いものに映ってしまったらしい。

仮に彼女からお歳暮というものを受け取っていたとしても、どうだろうかと思うので、文化の違いなのだろう。

そういうちょっとしたズレがたまりにたまって、少しずつ亀裂を大きくしていくんだろうなと思うなどした。

 

そんな風に思っていながら、キャンペーンを終了宣言までしておきながら、それでも時々様子をうかがう電話をかける自分が、嫌になる。

依存というものだろうか。

彼女の電話はとても長く、ひどい時は2時間にまで及ぶ。

内容はほとんど彼女の生活についてで、スーパーであれを買ったからあれを作るなどの話が中心で、こちらの様子はうかがうことはない。

それがすべてなのだ。それがすべてだと分かっているのに。

何かの本でちらりと読んだ気がするが、母親の呪いとはこういうものなのだろう。

母親に愛されたい、認められたい、そういう幼い自分の思いが、成長した心の中で大きく膨れ上がって、心からはみ出てしまうのだろう。

私は早くに父を亡くしているので、その影響もあるだろうと思う。

仮に父に認められたいと思っても、もういないのだから、どうしようもない。

その分、母親に向かったのかもしれない。

 

結構前に、いわゆる毒母と言われる親を亡くした人が、やっと解放されたというようなことを書いていた。

もしかすると私も、そうなるのだろうか。

それはそれで仕方のないことなのかもしれないけれど、もう少し足掻いてみようと思う。

自分が大事にしたいことだけを考えて生きられるように。

生きづらさから

距離を置いた生活を始めて、どれくらいになるだろうか。

要するに、ひきこもりである。

外に出るとそれはそれはややこしいことだらけで、そういうものがいちいちアンテナに引っかかりやすい私は、殻の中に閉じこもって好きなことをしながら過ごすということを覚えた。

小さな波はあるものの、調子はそんなに悪くない。

悪くないとは言っても、まだまだお風呂に入れなかったり、買い物に行けなかったり、本を読めなかったりするのだけれど、そんな中でも時折「楽しい」と感じることが顔を出すので、それを捕まえにいくという生活を送っている。

 

さて、いつもは何を書いていただろうか。

そんなことを思いながら過去のブログを漁り、ヒントを得ながらこれを書いている。

過去に比べて何かを感じることが格段に少なくなったので、記事を書くページを開く頻度はものすごく落ちた。

それでもやっぱりここに帰ってくるのは、また前みたいな文章が書けるかもしれないという淡い期待なのかのしれない。

 

 

せっかくなので、今年の抱負でも書いておこうかと思う。

2022年は、2021年よりももう少し元気で過ごすことを目標にしている。

そのために手帳を使ってやる気の把握やルーティンの管理などをし、「理想」にほんの少しでも近づけるようにと、色んなことを毎日積み重ねていっている。

 

習慣が、苦手だ。

いや、苦手になってしまったのか、もしかすると苦手だと気付いてしまったのかもしれない。

楽しんでやっているうちは続くのだが、それが習慣や作業になったある日、ぱたりと途絶えてしまう。

そのくせ、成果や記録が蓄積されていくのを見るのは大好きなので、手帳の出番、という訳だ。

去年の8月あたりから始めて、既に2か月くらい穴をあけてしまってはいるのだが、1月という区切りが来たので新たな気持ちで再開して、今のところは続いている。

お陰で、机がなかなか片付かない。

どう関係があるのかというと、机の上をきれいに片づけてしまうと手帳が目に入ることがなくなり意識から消えてしまうため、常に出しっぱなしにしておいて、忘れてしまうのを防いでいるのだ。

そんな感じなので、私の机の上は、たくさんの種類のマーカーやボールペン、複数の手帳、ノート、いつでも手元に置いておきたい本なんかが山積みになっている。

見せる収納を参考にすればいいんだろうなと思いつつ、なかなか実行できていない。

机が汚れる程度で習慣が保たれるなら、もうこれはこれでいいのかもしれない、なんて思ったりもする。

こんな風に自分を許しながら、今年も少しずつ整えていきたい。

いつの間にか

年が明けて半月が経過していた。

Twitterであいさつはしたけれど、ブログのことはすっかり抜け落ちていた。

かといって、書くことといえば、今年は絵に全力投球するということくらいしかないのだけれど。

調子は相変わらず冬にしては好調で、これまでのそれはきっと冷えだったり、前の家という環境だったりが強く影響していたんだろうなと感じている。

低気圧の影響も前ほど酷くはなくなって、ぼんやりと頭が痛かったり眠気が少し強かったりする程度におさまっている。

ただ気になることがあるとすれば、今はまだ自分の力で生活できているわけではないということだろうか。

それでも、これからのことを真剣に考えたときになるべく前のように折れないような道を選ぶことができているだろうし、それははたから見たらただの夢なのかもしれないけれども、現実的な目標を立てて1つ1つ進んでいっているので、きっとこれでいいのだろうと思う。

今は準備期間なのだ。

とりあえずの時間ができたので、その時間を自分らしく使って、色んなことを一つ一つ形にできたいいなと考えている。

置き所がほしい

ボールペンを、なくした。

お絵かきの練習に使っていたボールペンなのだけれど、よく使うからと言って別の箱によけてしまっておいた結果、分からなくなったパターンだ。

私は昔からこういうことがよくあって、お札を封筒に入れて覚えていそうなところに隠してはそのことをコロッと忘れ、ある日見つけて喜ぶということを繰り返していたような記憶がある。

そのことで母からは、「あんたはネズミみたいに貯めこむね」と面白がられていた。

 

10月に、引越しをした。

荷物は、未だに片付けきれてない。

片付けきってしまうと、引っ越しボーナスが終わるようで……と言いつつも既に、引越しボーナスはなくなりかけているのだけれど。

引越しボーナスとは、引越しが決まってから片づけをある程度終わらせて日常を3週間ほど送るまでの間の、すこぶる元気だった期間のことである。

気付いたら日に日に元気はなくなっていって、また、ナメクジのような日に戻りかけてしまった。

相変わらずだめな感じにぐだっとしていたい自分と、環境が変わって新しいことに挑戦しようとする自分が戦っているようで、昨日までの半月はずっと、挑戦しようとする自分が負け続けていた。

これはまずいというところで、先ほど少し本を読んで、そうだ手を動かそうとブログを開いて、今に至る。

 

自分の中で、生きるということは嫌な記憶を増やすことなのかなと思う時がある。

バス停で抜かされたこと、電車やバスで暴言を吐かれたこと、知らない人にデブと言われたこと、勘違いで店員さんに変なことを言ってしまったこと……他にもたくさんの小さな嫌なことから、二度と思い出したくない大きなやらかしまでが日々、代わる代わる脳内を走り去っていく。

その度に眉間にしわを寄せながら振り払おうとするのだけれど、そこでまた違う記憶が駆け抜けていく。

それらは消えることがなくて何度も来るのが大半なので、人生30数年生きてきた今となっては、そういうものなんだと納得させて受け流すようにしている。それでもつらいけれど。

一時は人に言われて嬉しかったことやよかったことをかき集めて、そういう時に見るようにしてもみたのだけれど、最近はめっきり人と関わることが減ったどころの騒ぎではなく、ほぼなくなってしまったので、そういうことが集まらなくて、どうしたものかなと考えたりもする。

 

もう少し上手に、人ごみをするすると通り抜けていくように生きられたらいいなとはいつも思うのだけれど、大抵は自分の車の幅を見誤った運転手のように、がしりがしりとどこかにぶつけながら、そしてがりがりと削りながら不器用に進むしかないのだろうなと感じている。

誰しもそうなのかもしれないし、そうでないのかもしれない。それは分からないけれど、少なくとも私自身はそうなんだろうと思う。

 

何の文章だろうか。よく分からないけれど、久々の雑記ということで載せてみることにする。