小春日和

だめなひとの雑記帳

追いたてられるように

食事、仕事、食事、仕事、食事、書き物などの作業を一通りこなして寝床に入り、また次の日、洗顔や歯磨き、2号の餌やりとまた作業をこなしていく中で、1号の水やりにたどりついた時、ふと我に返るのが最近の日課になった。

遺影として飾ってある写真は本当にいい顔をしていて、きちんとしたカメラで撮ったものだから、被毛の1本1本が鮮明に写っていて、(そうそう、この辺の毛先がよく絡んじゃって…)なんてことを思い出しては、やっぱり涙を流してしまう。

悲しいとか、辛いとか、不思議とそういう感情はなくて、自分でもよくわからないのだけれど、涙を流すべくして流しているというか、それはとても当たり前のことでしかないように感じている。

もしかしたらそれを悲しいというのかもしれないけれど、正直私は感情と言葉のつながりがよくわからず、困ってしまうことが多々あるのだ。

「楽しい」もわかるけれど、しっくりこない。高揚感ならば納得できる。それは確実に含まれているものだから。

「怒る」は少しわからない。「どうしてそういうことになるの?」と思うことはあるけれど、解決方法を可能な限り探して対処することが多いし、そもそも「イライラ」という方がとても近く感じる。

「悲しい」は、なんだろうか。卵を取り落として割ってしまったときなんかは、「悲しい」という。けれどその中身は、食べるものを駄目にしてしまったという罪悪感が大半を占めている。

では、今回は。

言葉に表せない感情が渦巻いている、とでも言うべきなのだろうか。

ただただ、もういないという事実だけが突き刺さっていて、それで、…。

時間を巻き戻せるならば、また会いたいと思いはするけれど、それはもう一度あの苦しみを味わわせることになる。それは嫌だ。だから、帰ってきてほしいとは、きっと違う。

後悔はゼロとは言えないけれど、それでも、ほとんどない。

なのに、どうしてだろうか。

ぼんやりと思い出したのは、引き出し1つ1つを丁寧に片づけるのは得意だけれど、その中の小物入れにこまごまとした小さなものを片づけていくのはとても苦手だったことだ。

どうしまっていいのかが分からなくて、ただただいろんな色の小さな文具やらが視界いっぱいにチラチラと映りこんできて、情報が多すぎて何をどうしていいのかまったく分からずに、一緒に片づけている母に託しては、放り出して遊びにいっていた。

もしかすると、それに近いのかもしれない。

とっ散らかった思い出や、思いや、その他いろんなものを、私は片づけなければならない。こればっかりは、自分でやるしかない。その苦しみが涙として表れているのかもしれない…そんなことを考えた。